トライアスロンとは・・・!
トライアスロンを始めて、もう29年が過ぎました。
大会出場は、トータルで180レースを超え、全日本宮古島トライアスロン大会は、29年連続出場。徳之島大会も、20回出場しました。何がそんなに俺自身を魅了するのか、今回ここに記したいと思います。
思い起こせば、1985年。
ビクターインビテーションと言うレコード会社に所属していました。そこには、サザンオールスターズ、高橋真梨子、頭脳警察、浜田マリなど一流の所属アーチスト達が活躍していました。
そんな中、俺自身ヒット曲を出すために、また所属事務所もレコード会社も躍起になっていました。その時の作品は、ドーナッツ盤と呼ばれたシングルレコードが発売になっていました。タイトルは「抱きしめて」と言うナス流し台のCMソング。そしてヒット曲祈願のプロジェクトは、すべての人々の意表を突く、日本を縦にマラソンで縦断し、尚かつレコード店を訪ね歩く、演歌さながらの企画でした。マラソンは、毎日平均で40km以上を走る無謀な素人考えの企画です。
そして尚且つ走り終えた一日の締めくくりが、地方のラジオ、TV、新聞などの取材に応じて行く。たどり着いた目的地の町のレコード店では、ミニライブ。大都市では、コンサートなどをこなさなくてはならない、今思えばただただクレージーな企画だったのです。しかも、マネジャ-とふたりでの旅は、ワゴン車の中で夜を過ごす過酷そのものでした。
企画でくすぐられたのは、日本テレビの「ズームイン朝」や各Key局のワイドショーなどにも枠をもらえる約束が成立していましたので、何かがきっと起こるであろうと信じ、この企画に乗ったのでした。
しかし、運は無情にもつきませんでした。
北海道宗谷岬を出発する予定日は、1985年8月14日。3日前の8月11日。当時の新人プロの登竜門で有名だったライブハウス「新宿ルイ―ド」には、400人強のファンが集まり、盛り上がり、日本縦断マラソンキャンペーンの旅立ちを祝い、見送ってくれたのでした。
そして翌々日の朝の13日。フェリーが函館に着く直後、船内のテレビが、がなりたてたのです。航空史上最大の悲劇が起こっていたのです。1985年8月12日「日本航空123便大阪行」墜落。
(残念なことに、その機内には、11日新宿レイ―ドに見に来てくれた我が友も搭乗していたのです。)
14日、縦断スタートの日、企画とは裏腹に俺は、うわの空状態でした。しかも取材陣は約束とは異なり、地元のローカル新聞社ただ1社だけでした。
またその年は、不運が重なり、両親の会社の倒産、出発前日の父の入院、御巣鷹山での友の死、生まれたばかりの娘と妻を残しての出発は、ただ地獄絵図でしかありませんでした。
それでも1985年12月3日。
日本縦断マラソンキャンペーンは、いろいろな困難を乗り越え無事3,322kmを走破して、沖縄那覇市役所にゴールしました。それは、壮絶な3ヶ月半の旅でした。(この日本縦断の思い出は、いつか機会があったら皆さんにお伝えしたいと考えています。)
日本縦断をやり遂げた我が肉体は、心技体と共に超人的に変身していました。
1986年 第2回全日本宮古島トライアスロン大会への挑戦。当時、トライアスロンなんて誰も知らない時代。
NHKが第1回宮古島大会を全国に紹介したのが切掛けで、マニアックなファンができたことは間違いない事実でした。
俺も全国を縦断していた途中に、たまたまTVで観て、この競技に魅力を感じ、いつか挑戦したいと考え始めていました。
まず挑戦にあたって考えた時、俺の生まれ育った環境は、海の近くの町と言うこともあり、水泳には自信があったし、自転車には乗れたし、マラソンは日本縦断したと言う大きな実績があるので怖くもありませんでした。だから何ら支障も感じず、1986年4月27日。第2回宮古島トライアスロン大会に出場したのでした。
そうです。これが29年間続いたトライアスロン人生の始まりであり、虜になった出発点でした。
当時の宮古島大会の距離は、現在のものと異なっていました。
Swim 3km Bike 136km Run 42.195km トータル181.195Kでした。(ちなみに現在は、Bikeが155km に変わり200.195kmになっています。)振り返ると29年前のあの日は、本当に暑い宮古島でした。3kmの水泳は、当時なんと平泳ぎで泳ぎました。今考えると吃驚です。しかも、3kmを54分で泳いでいるのだから俺にとっては、驚きの速さです。
また自転車は、端から乗るだけと馬鹿にしていたものですから、やはりトライアスロンという長距離競技の洗礼をここで受けることになりました。あまりの長距離ゆえ、スタミナも心もついて行けず、Bikeでの尻の痛みにただ耐えて前に進むことだけでした。何十人もの選手達に抜かれ闘争心は、とっくに失せてしまいました。それでも何とか頑張り、Bikeをゴールして新たに42kmのマラソンが始まるや否や、使う筋肉に違和感を感じるばかりです。そして、あらゆる箇所の痙攣に泣きました。
日本縦断をしたという驕りからくるオーバーペースでの失敗でした。
走りは、ジョックのような速さ、心に鞭打ち、歩きでやっとのこと最後の競技場に戻ってきたときは、オレンジ色の夕暮れの中でした。
そして、のこり100mを切ろうとしていた時のことです。前に一人の選手が走っていました。当然、レースなので最後の気力を振り絞りラストスパートに入ります。そしてその選手の横に近づいた瞬間、その選手が不意に振り向きざま、こう言ったのでした。
「(こんなに長い距離を走り競ってきたのだから)いっしょにゴールしませんか?」っと。『ええええええ~』と一瞬何を言っているのか理解できませんでした。
でも、何かがこころをたたきます。
そうか~!優勝を争っている立場ならともかく、150位あまりの順位に居る自分なのだから勝ち負けなどを考えることはない。
それよりもその選手の優しく澄んだ瞳に吸い込まれるように「一緒にゴールしましょう」と答え、汗まみれの手と手をつなぎ合い、ゴールしたのでした。
ゴール後、体育館で点滴治療をしてもらいながら振り返った事は、「競技とは、もちろん自らの限界に挑み、戦い抜くこと。しかし、トライアスロンのような長い道を戦い抜く者同士には、競技を超えた心の優勝があるんだ」と感動と涙にあふれながら気づいたことを昨日のことのように思い出します
あれから29年。
あの時の選手が誰なのか、今となっては、わかりません。
もしかしたら宮古島を守る神々の贈り物だったのかもしれないと考えるようになりました。
のちに僕の代表曲にもなる「TRY YOUR BEST」が生まれ、その2コーラス目にある詩の中の「心の勝利めざし・・♪」とは、まさに「心の優勝」のことなのです。
心の優勝とは。己に勝ちぬき、人に優しくなると解釈したのです。トライアスロンとは、消して過酷な競技では、ありませんでした。自らの心と会話してさえいれば、素晴らしい景色も空気も海も感じるままに、やわらかな風になり得ると自ら学んだのです。
いつか、あなたもあなたのその靴を脱ぎ棄て、裸足になって白い砂浜を走ってみてください。指に絡まる砂の心地よさが伝わったとき、あなたなりの答えが心に降り注ぐことでしょう。
2015年 1月 古代眞琴