1985年8月14日(水)
宗谷岬から稚内 30km 2時間39分23秒 26,900歩
ついにやって来た最北端、やはり思った通り寒いくらいだ。御土産売り場で証明書を買ってからウォーミングアップ。塔の下で写真を撮った。
10時58分にスタートした。
体の調子がいい。海の香りに包まれながらの旅立ちである。曇っていたせいか、海の色は青黒い。風が少しあり、肌寒い感じ。5kmくらい走る。後ろから来るオートバイが合図してくれた。右手を大きく上げる。心楽しくなってきた。
体の右側は、ミズナラというブナ科の雑草が涼しそうに茂っている。途中、工事中のおじさんが「沖縄まで行くのか?」と声を掛けてきた。「はい」と答えると驚いた様子で「頑張れよぉ〜」の声。うれしい。
15kmほど走っている時、一台の車の助手席から子供が、「がんばれ〜!」と再び声が飛んできた。練習の時とは全く違う空間。空気もうまい。ペースは自然と早くなるのだが、すべてが新鮮で疲れを感じない。実に絶好調!。
牧人(担当マネジャー 佐尾牧人 通称:マキト)は5km先に車で行っては距離や写真を撮って待っている。
近づくと心配そうな顔つきで見ていたので「大丈夫だよ」と笑顔でサインを送って走り去って行く。
その後、車で飛ばした牧人(マキト)が今度は自転車に乗り換え帰って来た。
スポーツドリンク、栄養ドリンクを持って!
さて、これからどんな事が待ち受けているのだろうか?
不安と希望を胸に一日目は、全く快調に走り終えることが出来た。
日本最北端の地
走り終わって市役所に向かった。稚内市長に会うためだ。この日本縦断の証に一筆頂きたかったからだ。
しかし、いきなり行っても会ってもらえないと思っていたが、イチかバチか…!
流れがいい〜!浜森市長はにこやかに出迎えてくれた。写真におさまり、そして日本縦断の目的を話した。とても感じの良い方だった。
帰り際、稚内の記念にと、稚内のカギとネクタイピンをくださった。
稚内市長 浜森辰雄
稚内宗谷岬から沖縄まで3,500km走って歌って列島縦断の成功を祈る
八月十四日午前十一時
稚内 浜森市長
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1985年8月15日(木)
稚内駅前 午前11時スタート 豊富町まで40km 3時間35分02秒 36,200歩
昨日とは打って変わって暑い日だ。旅行中らしい女の子二人と男の子一人に見送られて稚内駅前を出発した。2kほど走ると「新聞社で〜す」と言って写真を撮るカメラマンと出会った。たぶん宗谷新聞だろう。
本来ならKey局やいろんな取材が入る予定になっていたのに3日前の日本航空墜落の事故で予定はかなり変わっていた。しかし航空事故のあまりの悲惨な光景がテレビでにぎやかに流されているのは、ただただ心苦しい。
さてさて宗谷新聞の取材を受け4k地点を過ぎると、牧草地に入った。行けども行けども、真っすぐな道が続く。気温は30℃を超しているように思われる。
牧人(マキト マネジャー)は車で20km地点まで先に行き、自転車で水などを持て戻ってくる予定だ。
ひとりひたすら前を向いて走る。
長い長い真っすぐな道がどこまでも続いている。カーブだ。やっと右に曲がれるなと思った。そして曲がり切った。そこにはまた、真っすぐに地平線まで続く道が現れた。気が遠くなるように広い北海道だ。
12〜13km過ぎると、遠くに自転車の姿が小さく見えた。『アッ、牧人だ』。嬉しさがこみあげてきた。やっぱりひとりは心細い。
しかし近づくとツーリングの自転車だった。勘違いにがっかりだ。牛がノンビリと牧草を食べている。しかしそれを楽しむ余裕なんてかけらもない。暑い! ノドが渇く。目がかすみそう。
ぼんやりまた、遠くに自転車の影が現れた。期待しないよう期待しないように心を抑えるのだが、もしや、という気持ちが心を弾ませる。
近づいた。牧人だ、と思った瞬間、その影が手を振っている。あぁ〜涙がこみ上げる思いだ。そして思わず両手で大きく答えていた。
息を切らして牧人が近づいた。スポーツドリンクを補給した。天国だ。20km地点まで行ったところで2時間ばかり休むことにした。
昼飯は悲惨だった。牧草地帯の中、店などなく、車に積んである補助食品のカップ麺を食べることにしたのだが、お湯がない。そこで牧人が言ったのが「まことさん水を入れただけのカップ麺も冷たくて意外においしいですよ」と。では牧人に従順に従ってみようと冷やしヌードルというわけになった。
あぁ〜なんという奴なんだ。まったく食べれない。まずいの一言だ。空腹には勝てず、冷やしヌードルを半分食べて不貞寝した。
仮眠した後、車からギターを持ちだし歌の練習。気分を変え午後3時半、20km地点を出発した。まだまだ暑い。
仮眠で疲れは癒されたとは言え、次第に苦しくなる。牧人には10km先に行っては戻って来てもらうことにした。40km地点に着くころには、もう思考能力ゼロになっていた。
オートバイや自転車。そして車などの激励に力を貰いながら走る続け豊富町に着いたのは午後6時半を過ぎていた。
冷やしヌードル
長い道
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1985年8月16日(金)
豊富町から天塩町まで 33km 3時間31分02秒 曇り時々晴れ 強風 体重53.5Kg
豊富町駅前で初めて野宿した。
駅前の水道で顔を洗いに行くと、若者たちがたくさん駅のベンチで野宿していた。
やっぱり疲れが体に残っている。そりゃそうだよね!昨日40Kも走っているんだから。
駅を午前9時近くに車で出発。昨日のゴール地点に戻る。途中いろいろ店を探し、やっとパン屋を見つけた。この町は、どこに行っても氷を売っていない。こんなに暑い夏なのに!!
スタート地点に立つ。
風が強く、向かい風だ。体も重く、走る気持ちにもなれない。まだ始まったばかりだと言うのに何ということだ。それでも午前10時にスタートした。
走り始めて豊富町を抜けると、さらに風が強さを増してきた。ひどい向かい風。
苦しいの一言。のどの渇きも尋常でない。牧人は先に行っていてまだ戻らない。自分の呼吸だけが悲しく耳に伝わって来る。その横を車は、時速100K以上で飛ばしている。一般道なのに、まるで東名高速のようだ。苦しさと恐怖心に心がいたぶられる。
時々顔をのぞかせる太陽も異常に暑い。
12km地点手前で牧人がやっと水を持ってきてくれた。もうバテバテの再会だった。そして、狂ったように水を飲む。うまい!
16km地点に着き、一度豊富町に戻る事になった。町長のサインをもらうためだ。そうだ、これで飯にもありつける・・・!
役場により飯屋に入った。飯屋の主人は老夫婦で北方領土からこの町に移り住んだ人だった。そして当時の話を淡々と語りはじめ、聞いているうちに涙が出てきた。真実とは実に恐ろしく悲しいものだ。この話は俺の心にとどめようと思った。
飯屋を出て、少し車で寝てしまった。俺の寝ている間に牧人は、洗濯をしたらしい。
午後4時、2度目のスタート切った。天候はうって変わって雲が厚く、今にも雨が落ちてきそうな空模様になっていた。風は午前中より弱まっていたが、今度は気温がグングン下がっていた。やはりここは北海道なんだ。
天塩大橋を過ぎ、国道232号線に入る。1K進むごとに距離表示があった。1kmがこんなにも長いものだとは…!
広い野原にポツンポツンと牧場が見え隠れする。なぜか心が寂しさを感じる。でも行きかうオートバイや自転車のツーリングの若者の声や手をあげる合図に勇気づけられ走り続けた。
遠く道路の端に黒い動くもの!?熊・・・かなと。目をこらすと牛だった。
牛が道路を優雅に歩いていた。近くに行くとそれは大きい牛。1トンもあるという。さーすが北海道は、デッカイドーだ。
ゴール7km手前まで来た時、牧人が自転車ではなく、走ってやってきた。『どうした?』と聞くと『まことさんと北海道を走りたかった』なんて泣かせるセリフ。
言葉少なに呼吸を合わせ二人並んで走った。なぜか涙が込み上げてきた。
真っ黒に焼けた肌から流れる汗。部分部分に白い塩が噴出していた。
最後は気力だけのゴールだった。
夕食。天塩の「なまなす食堂」のおばちゃんに気に入られた。レコードを3枚も買ってくれた。「歌ってもらうといくらかかるの?」と聞かれ「お金はいらないよ!」と答えると、飲み屋を2軒紹介してくれた。
これが走って歌って日本縦断なんだとつくづく感じた。
豊富町長 川井義雄一筆
初心忘れず、走って歌って列島縦断の成功を祈ります。
8月16日 午後1時36分
豊富町からの走り
マネジャー佐尾牧人
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1985年8月17日(土)
天塩町から初山別村まで 45km 4時間22分35秒 曇りから雨
とても体がだるい。
サイクリストやオートバイの人達の野宿で花盛りの手塩駅前を午前10時に出発することに決めた。朝の朝食は、昨夜仕入れたおにぎり。トイレや洗面は、駅で済ませる。駅は、野宿には最適だと知る。
さて、今日もまず役場に寄ろう。これも列島縦断の証明なのだから!
天塩町長 身延清助
「天北の海浜縦断の成功を祈ります。 8月17日
町長から一筆頂いて10時50分にスタートした。
スタート前には、牧人の入念なマッサージがあるのに、体はやはりだるい。そりゃそうだよね毎日フルマラソン状態なんだから!
走り始めて2Km。
またまた長い一直線の道が続く。牧人には10K先で待ってもらうことにした。このところのどの渇きが激しいからだ。
とにかく10Kmを目標にと思いながらも、今日は45Kmか!と思うと気が滅入ってくる。
7K地点ぐらいだろうか、.牧人が自転車で戻って来た。救われる思い。そして水をがぶ飲みした。すると急に横っ腹が痛み始めた。考えたら走る事の知識もなく、ただがむしゃらにやっているのだから自殺行為かもしれないと思う。
それでも11Km地点までたどり着いた。そのころ雨が降り始めた。車で30分休みながらおにぎりを無理やり食べた。心はとにかく前に進むことを考えている。しかし、心身共に苦しさから逃れられない。
16Km地点。とうとう初めて弱音を吐いてしまった。「牧人、今日の予定、初山別村までは行けないかもな…!」牧人は心配そうに、何も言わずただうなずいた。
栄養ドリンクを2本飲んで仮眠した。
起きてみると時計の針は午後3時を指していた。
焦る。予定の半分も来ていないのだ。ただ仮眠と言う休息は、少し心に元気をくれた。
屈伸をする。雨も小降りになっていた。
午後3時10分再スタート。
走り始めると意外や調子が上がって来た。牧場地から少し離れた遠別町に入る頃、雨は本降りになった。小さな町はアッと言う間に過ぎ、また雄大な牧草地に出くわし、さらにどこまでもまっすぐな道が続く。走っても走っても同じところをグルグル回っているような錯覚に陥る。大粒の雨の粒を受けながら東京の家族の事を 考える。
いやこれが俺の決めた今の仕事。雨に隠した涙の意味を心に落とした。
牧人には、5Kごとに居てもらうことにした。5Km先には必ず牧人がいると思うと格好の目安になったし気分転換にもなった。
33Km地点。初山別村まで12Km手前の牧場で休ませてもらうことにした。交渉は牧人の配慮とお手柄だ。牧場の人が不思議そうな眼で俺を見ているので、思わず「こんにちわ」と精一杯の笑顔で声を掛けた。すると牧場主も笑顔に変わり「こちらにどうぞォ〜」と答えてくれた。「水を分けて頂けませんか?」とねだると「冷 たい牛乳を飲むかい?」と言う。思いがけない言葉に「はい」とかん高い声をあげた。こんなに牛乳がおいしいとは思わなかった。今まで飲んだそれとは全く違う。言葉では表せないおいしい牛乳の初体験だった。
牧場主は北島さんと言う方だった。ひと時を休ませてもらい、丁重に御礼を告げて再スタートした。遠く後ろで北島さんが「がんばれよ〜」と見送ってくれた。うれしかった。
雨が冷たくとても寒い。とにかく前を向いて走る。雨の日の車はクラクッションで応援してくれる人が居る。たぶんローカル新聞を読んだ地元の人達なのだろう。本当に些細なことに勇気づけられる。
しかし、ほとんどの車は、高速道路を走るように猛烈なスピードで走り去って行く。
空も暗くなり、車がライトをつけ始めた頃、初山別村に入った。
この日にここまで来れるなんて思ってもみなかっただけに気分はハイになった。
ゆるい下り坂になった時、最後のスパートをかけた。足の裏の豆がつぶれかけた感触。それでも心はのっていた。トータル4時間22分35秒の4日目の旅だった。
雨にも負けず
車で仮眠
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1985年8月18日(日)
初山別村から苫前町 37Km 曇りのち快晴 3時間18分18秒
初山別駅前で寒い朝を迎えた。俺の感覚で言ったら10月中旬ごろの肌感覚。
牧人はまだ眠っているのでそっと起き、駅のトイレに駆け込む。小さな駅にも数人の野宿の若者がいた。駅には一台の電車が滑り込んでくる。乗客は、まばら。そんな光景を見ながらパンとハムの朝食をとった。
右が日本海、そして左に山。その間が道路になっている窮屈な感じのする町だ。
牧人は疲れてる様子で、なかなか起きてこない。
9時を過ぎた頃から真夏の太陽が顔を出した。風は追い風に感じる。しかしどんどん暑くなってきた。
9時半に出発して2Km先の役場に向かった。が役場は閉まっていた。そうだよ、今日は日曜日だ。ふと『俺たちには日曜のないのか!』と頭によぎる。
夜、東京の事務所に牧人は毎日連絡取るのだが、なかなか厳しい事を言われているらしい。それでも言われた流れを全うしていくのが、今の俺たち。でも休みがないとダメだよね!
町は運動会をやっているらしく、歯切れのいい花火の音がこだましている。
さて、気合を入れて、まず20Km先の羽幌町まで走ろうか!
走り始めるや真っすぐの海辺の道は、かなりアップダウンが多い。ただ追い風は味方になってくれる。突然また腹痛。このところよくある。ちょっと神経質になっている。10Km地点で休憩。30分休んで、昼過ぎ羽幌町に着いた。
羽幌町は初山別よりも大きな町だった。海辺のビーチ近くで牧人に「やっぱり事務所にはうまく報告することにして今日は少しここで休もうぜ」と。牧人もにこりと笑い「そうしましょか!」と。
お腹の調子もいまいちなので、俺はボンボンベットに寝転んだ。
牧人は地元のウインドサーファーと仲良くなったらしく、話し込んだりウインドサーフィンを借りたりして楽しんでいる。そうだよ、たまにはこうでくちゃ。とてもじゃないけど沖縄まで持たないよね。
俺は軽い睡眠をとりながら夢を見た。
清美(妻)と絵里花(娘)が海で遊んでいる。ヨチヨチ歩きの絵里花がキャーキャーと声高く俺を呼ぶ。目が覚めた。『あぁ〜帰りたい』。
午後4時、羽幌町を出た。
弱気を忘れるため、必死で走った。ペースを限界まで上げる。牧人が車を横に着け、窓を開け「まことさ〜ん、大丈夫ですか?」と言う。目で『大丈夫』と答える。
おもしろいね、そしたらマジ調子が上がってきた。。地元のおじさんらしき人が車から身を出し「頑張れよ」とか「ご苦労さん」とか言う声が飛んでくる。右手をあげてそれに応える。
苫前町に入った頃、子供が3人遊んでいた。「こんにちわ」と声をかけると「こんにちわ」といかにも元気のいい返事が跳ね返って来た。
するとその中の一人が自転車で追いかけて来るではないか!
その子は俺に、声をかけようかやめようか迷っている様子。そして緊張したような顔つきで「お兄さんどこまで行くの?」と話しかけてきた。「沖縄までだよ」と答えると驚いた顔して「沖縄は遠いよ」だって。神妙な顔つきで「僕も行きたい」。なんだか無性にうれしかった。弱気な心が吹き飛んだ瞬間だった。
今日は、苫前の駅で寝ることにした。小さな駅で眠りに着くまでの間、電車は上下一本ずつしか通過しなかった。ちなみに車両は2両編成だった。
ゴールとスタートの印゙
真っすぐな道
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1985年8月19日(月)
苫前町から留萌駅 44.8Km 晴れ 曇りのち快晴 3時間59分28秒 40,600歩
すがすがしい朝とは今日のような朝を云うのだろう。北海道に来て夜のキャンペーンをやる場所も今のとこそ少くなく、居酒屋もない。だから10時になると寝袋に入る癖がついてしまったせいか、朝の目覚めがとてもいい。
東京では、あり得ない朝の日差しを浴びて、思いっきり北海道の空気を吸う。実にうまい。まさに健康である。
さて、朝食の買い出しに行くのだが、何しろ田舎町には売っているものが限られてしまう。結局、今日も食パンとハムで我慢する。
9時に役場に行くが苫前町長は不在だった。
スタート地点に向かうカーラジオから高校野球が流れている。PL学園と高知商業の試合。ゆっくり聞きたいがそうもいかない。しかし、PLの清原君、桑田君は1年生からレギュラーだから凄いよね。この子達は将来どんな大人になるのだろうか?もちろんプロ野球選手だろうね。
楽しみである。そんなことを考えていた時スタート地点に着いた。
牧人の入念なマッサージの後、午前10時10分にスタート。体調はすこぶる良好。14.4Km地点まで一気に飛ばした。そして休憩を予定していた海沿いのビーチに着くと、牧人が洗濯をしていた。「まことさ〜ん洗濯物はすぐ乾くのでここでちょっとゆっくり休憩とりませんか!」と・・・。傍から見るとのんびり優雅に見え てくる。牧人ならではのノリである。ならば少し声を出しておこうとギターを引っ張り出し2時間ばかり歌い続けた。そう、今日の夜は、留萌市内で4〜5軒キャンペーンが組まれているからちょうどいい練習だ。レコード屋もまわらなくちゃいけないしね。そう言えば、天塩の『はまなす食堂』のおばさんに紹介された天塩のある店 でおやじが「兄ちゃん歌、うまいね〜!」と褒め「でもその歌よくわからんから演歌歌ってみてくれ!」なんて言われたのを思い出した。どうもおやじと演歌は一対のようで好きじゃないね。
午後2時に再スタート。
今日は本当に調子がいい。海岸線も美しく気分も爽快、だからいつの間にかスピードもアップしている。
40分も走っただろうか?海を眺めている35歳くらいの男性が見えた。なんかミスマッチが心を楽しくさせる。「こんにちわ〜」と声をかけてみた。すると振り向きながら「・・・・車に気をつけて頑張れよ〜」と言ってくれた。
なぜか今日は、心身ともに快調である。
その上、何台もの車が、クラクションを『パッパパ』と鳴らしてくれたり、手を振って通り過ぎたりしてくれる。ありがたいね。こんなに元気になれるんだからね。
調子がいい時は、とてつもなくパワーが生まれるものだ。あっという間に10Km以上走った。
その時だ、ゴミ処理車の助手席から先ほどの男性が大きく身を乗り出して「色男、がんばれ〜」と大声をあげて通り過ぎて行った。鳥肌が立つような嬉しさだった。
小平町3キロ手前で急に体調の変化を感じる。めまいがした。潮風が冷たく感じた。真夏の太陽は容赦ないのに寒さを感じる。やばい!調子がいいから昼飯も食べずに走っていたせいなのか?時計は4時を過ぎている。
そうだもう少し先に行ったら、飯屋があるはずだと思いだす。
北海道に着き、車で宗谷に向かっている時、立ち寄った店だ。少し歩いた先にその松雲亭はあった。
松雲亭の夫婦は、俺の事を覚えていてくれた。まずは水をがぶ飲みした。どこにこんなに水が入るのだろうかと思うくらい飲んだ。おかみさんも見ながらびっくりしている。「お兄さん、そんなに飲んだらお腹痛くなるよ」と。そうかも・・・!それからラーメンと大もりご飯、おしんこを頼んだ。牧人は静かにラーメンだけ を食べていた。あっという間の食べ方に夫婦はにこにこ笑っている。そして「お兄さん、ご飯とおしんこは家のサービス、サービス」と。もちろんレコードも買ってくれるは、サインは求められるは、今日は本当に気分の良い日である。
さぁ〜残り10Km。留萌に着いたら歌のキャンペーンが待っている。これぞ走って歌って日本縦断である。ヨシャー頑張るぞぉ〜!
ひたすら走る゙
牧人のお洗濯
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1985年8月20日(火)
留萌(休み) 快晴
海を見ながら日記を書いている。目の前に広がる真っ青な海と、水色の空。ところどころに浮かんでいるような岩、その上で戯れるカモメの群れ。何もかもが美しく華やかだ。
太陽は海に向かって真後ろから上がり、海の少し左側に沈んでいく。ここは留萌 黄金岬と言うところである。明日の予定だった休日を今日に振り替えたのは、この海があまりにも見事で透明感にあふれていることと、やはり体が「休め」とささやいたからだ。
東京を出て一週間が過ぎた。
この一週間ただただひたすらに走って来た。新聞も読まなければ、家族の事も忘れて…!
そして少しずつたまった疲れを癒すためにこの素晴らしい黄金岬に導かれたような巡りあわせを感じる。
家族に会いたい。電話もせず心配かける俺を家族はどう思っているのだろうか?海を見ているとこの美しさと裏腹に涙が込みあげてくる。
今日は一日中、海を眺めて過ごそう。
カモメたちの戯れる声を聞きながら、ぼんやりと大きく息を吸う。そして思い出したように海にかけて行き飛び込む。心身の疲れが癒されてゆく。
昨夜のキャンペーンは、鍛えられた。やはりなかなかうまくいかなかった。難しいね。だって俺の事誰も知らないし、歌もみんなが演歌を希望する。ただローカル新聞で扱われる日本縦断には意外と興味を持ってくれることが、少しの救いかな!
そして、キャンペーン中に誰もが言った「黄金岬は日本一の落陽だから必ず見なさい」と言う言葉だった。
そして、この場所に来て納得したのだ。
平日なのに朝から地元の人のほか、観光客の姿も目立つ。ボートに乗って遊ぶ家族連れや恋人同士であろうカップル、みんながみんな実に楽しそうだ。
俺もいつかここに家族を連れてきてやりたい。と心に誓った。
夕方、待ち続けた落陽がゆっくりと始まった。オレンジ色に染まる一本の金色の道。その先に温かく大きな丸い鮮やかな太陽が笑っているように見える。これをどう表現しようとしても、この美しさと表す言葉を俺は持ち合わせていない。ただ言えるのは、本当に日本一の落陽である。
そして、沈みゆく夕陽を眺めていると、遠くひとりの老人らしき人がボートをかたずけ始めている。海を歩いていた牧人に何か話しかけている様子。牧人にボートを岸にあげる手伝いを頼んだようだ。彼方から「せいの〜」とか「ヨイッショ」とか気合を入れる声が岬に響いている。本当に牧人は誰とでも友達になるようだ。 と苦笑した。
そんな二人を見ながらぼんやり夕日を浴びていると、牧人が俺に向かって叫び始めた。何を言っているのか分からずにいると、こちらに駆け出してきてまた牧人が叫ぶ。「ボートをおじさんが貸してくれる・・・」と。
落陽が海に隠れていく中、牧人と二人ボートを海に浮かべた。
我を忘れて休日を楽しんだ。
黄金岬の休日゙
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1985年8月21日(水)
留萌から秩父別町手前(北竜) 32Km 30,250歩 2時間57分06秒
黄金岬は静かな朝を迎えた。ちょっぴり寒いかな?と感じたが、いやいやとても気持ちがいい。でも、昼を過ぎれば、またいつものように今日も暑くなるだろう。
牧人が「朝食です」と言った。見るとパンとハム。『またかよ〜』と思ったところに牧人がレタスと牛乳を出した。得意げな顔にふたり大笑ってしまった。
自然の中、海の奏でるメロディーに身をゆだねる。カモメの声が時折アクセントになり素晴らしい雰囲気になる。まさに優雅なときの中、遠く水平線を眺めながら、いつかこの思いを曲にしたいと思った。
9時頃、黄金岬に別れを告げ、留萌市内に戻った。駅前交番で市役所を教えてもらった。
留萌市長 原田栄一
初心貫徹 ご成功を祈る 昭和60年8月21日 午前9時30分
市役所の帰りレコード店にも挨拶。牧人はこっそりと俺のレコードを探し、一番前の一番目立つ場所に置いた。さすがである。
10時20分にランスタート地点に着いた。予想通り暑くなってきた。そして10時30分スタートした。
今日は地図によると海岸線を離れ山の中を走る事になる。
そしてすぐになだらかな登りが続いた。大体、休んだ翌日は体が重く感じるのが俺の通常なのに、今日は意外に調子はまずまずのようだ。海岸線と違って風がなく山の中に入れば入るほどムーンとむさ苦しい。
いつもなら観光客やオートバイの声援に勇気づけられるのだが、今日はそれも極端に少ない。
追い越して行く車、すれ違う車のどれもこれも高速で飛ばして行く。車の去った山の道路は嘘のように静かになる。蝉しぐれと夏の香りに包まれる中で、身に付けた万歩計の歯切れのいいカチカチカチ、というリズムが心を楽しませてくれた。調子は良好!
15Km地点で休憩。
洗濯物が山のようにたまっていた。洗濯が出来る水道と干せる空地を探した。カーラジオから流れているのは全国高校野球の決勝戦らしい。やはりPL学園の桑田君と清原君は勝ち残っていた。俺と牧人は高校野球に耳を傾けながら役割分担で洗濯をした。ふたり言葉を交わさなくてもこの縦断の生活ペースにやっとなじんだ ようだ。
午後3時30分、ランスタート地点に戻る。走り始めるやすぐに急な上り坂が立ちはだかった。『アッ〜とうとう来たか!』という気持ちで気合を入れて突入した。しかし、ここで休憩中のミスか、水分の取りすぎか、横腹が痛みだした。スピードはみるみる落ち、苦しさだけが押し寄せてくる。息を2度吸いこみ、長ーく吐 き出す。これが苦しい時の走りのコツと自分で工夫していた。そして、出来るだけ前方を見ずに路面を見据えて走るのもコツとしていた。坂の上まで着くころにはすっかり体力を奪われていた。
ゴールまで地図では10K以上もある。無理は禁物と牧人に止められ休むことにした。
しかし、どんなに水分を補給しても体力は戻ってこなかった。
その後走り始めたものの、走っているというよりも、歩いているといった事になってしまった。1K,1Kがとても長く感じる。ただただ苦しいの一言だ。
ラジオから流れていた高校野球のPL学園の桑田君や清原君の苦しみの中からつかんだ栄光に思いをはせ、自分自身にゲキを飛ばして走り続けた。だが悪いことは重なる。左足の内側が強い痛みを訴え始めていた。
予定より手前ではあるが、今日はこれまでとやめることにした。
左足に激痛゙
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1985年8月22日(木)
秩父別手前(北竜町)から新十津川町1K手前まで 26Km 25,000歩 2時間27分55秒 快晴 気温30℃以上
秩父別駅前の朝。
今日もまた暑くなりそうな気配だ。左足の内側に違和感が残る。ちょっと心配、でも牧人には黙っておこう。
朝食を軽く済ませ、いつもの牧人のマッサージを受けるが左足は避けた。
今日の予定では、深川を抜ける予定でいたが、自ら平静を装い変更を提案して新十津川町を目指し滝川市に入るコースを探った。距離を短縮したというより平坦なコースで体調に配慮しての考えだ。それも昨日から痛みだした左足がとても心配になってきたからである。
10時7分にいつものようにスタートした。やはり痛みがある。『どうしよう!!?』
とにかく左足を気遣いながらゆっくり進む。5k地点まで来た時、北竜町役場に立ち寄った。
ひまわりの町 北竜町 助役 千場 一
走って歌って列島縦断企画成功をお祈りいたします。
日々是積小為大 がんばってください
役場で30分ほど左足を冷やしながら休憩したが、痛みは増すばかりだ。
走り始めて、何度も何度も休みを取りながら進む。
雨竜町を通過する頃になると痛みはピークを迎えた。痛い。痛みと不安が重なりあっていく。牧人にとうとう打ち明け、湿布を買ってきてもらった。その湿布を貼り、それでも前に進む。汗と冷汗がしたたり落ちてくる。痛みと暑さでめまいがする。
牧人に2Kmずつ先に行って待ってもらうことにした。牧人は気遣って2Kmごとに氷や冷やしタオルを用意してくれたが、焼け石に水状態だ。
石狩川橋を渡る頃にはもう走る事が不可能になった。
勇気を出してGive upした。辛かった。それでも新十津川町手前1Kmまで走れたことを感謝しよう。
牧人は俺に気を遣い、馬鹿話をくりかえしている。本当にいい奴だ。
牧人の提案で、明日のコースを下見しつつ今夜の寝場所を探しに滝川町に出向いた。これまでで一番大きな町だ。そしてまず最初にしなくてはならないことは、ふたりの感を頼りに久しぶりの銭湯を探しだし入る事、その後、洗濯をすること、そして、安くても美味しい食堂も探し明日の鋭気を養うことだった。
滝川町に着くとラッキーにも夏祭りで盆踊りや夜店が出ていて思わずハッピーな気持ちになった。
しかし、歩く間も痛みは消えず、楽しそうな牧人には言えなかった。
寝袋に入っても明日も痛みが治まらないのではないかとずっと寝つけずに居た。
困った時の神頼み。真剣に痛みが治まるようにこころで祈った。
左足痛 Give up゙
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1985年8月23日(金)
新十津川町から滝川市空知橋まで 4Km 27分13秒
左足痛ダウン
滝川市の北電公園での朝。昨夜、左足に湿布したせいか、幾分楽になっていた。
滝川市で朝食をとり市役所を回り、レコード店も探したが見当たらず、ランスタート地点に向かった。
今日もまた暑い。国道275号線の車の数は意外に多い。行きかう車のすぐ横の空き地で牧人のマッサージを受ける。道路を走る車からは丸見えのはずだから、さぞかし滑稽に映る事だろう。でも恥ずかしさはない。ずうずうしくなったものだ。
さて、心の不安を牧人に隠しながら、午前11時20分にスタートした。しかし、案の定走り始めた瞬間からかなりの痛みを感じる。『やばいなぁ〜、まだ始まったばかりなのに、もしもこの企画を中止するようなことになたら・・・!』と不安は募るばかり。
今日は、1Kごとに牧人には待ってもらう約束になっていた。そして1K先まで行ったところで「やっぱり左足やばいかも・・・!まぁ〜行けるとこまで行ってみるわ」と水を飲む。牧人も心配そうにうなずいた。
とにかく、企画を中止させる事だけは出来ない。今日頑張っても明日以降に影響が出たら大変だと思うと、走るのをやめ歩いた。
そして、4K地点で断念した。
牧人の判断で滝川駅前交番へ。《ほねつぎ》を紹介してもらい、治療してもらった。
診断結果は、五日間の休養を申し渡された。病名は左大腿筋ねん挫だった。要は軽い肉離れらしい。
牧人は東京の事務所に連絡を取りに公衆電話を探しに行った。
ひとりになると、前に進みたい気持ちと、痛みによる不安が交互に襲ってきて、悪い方に悪い方にと考えを巡らせてゆく。
連絡から戻った牧人に「少し歩いて進もうか?」と切り出すと、怒ったことのない牧人が目を吊り上げて「今日は休養してください」と強い口調できっぱりと言った。牧人も事務所と俺の板挟みでの葛藤もあるだろう。だから彼も真剣そのものだ。そうだよな、本当に歩くこともできなくなったら終わりなんだから!
近くの団地の片隅にある空き地に車を移動して休むことにした。今日一日時間はたっぷりとある。ギターを出し歌の練習を始めてみた。しかし、ギターを手にして歌ってみても、集中できず心がもがき始める。不安ばかりが募り、自分に負けてしまいそうになる。みじめな思いに打ちのめされていたその時、車の影から顔を出 したり引っ込めたりする中学生の女の子3人が現れた。ひとりの子が苦笑いのような顔をして近づいてきた。
「お兄さん歌うまいですね!歌手ですか?」と。我々の車には俺のポスターがびっしり貼ってあるので一目瞭然なのである。「そうだよ」と笑顔でかえした。すると「マッチと友達?」と。そう言うことね!「マッチは友達じゃないよ」と答えると、ちょっとがっかりした顔つきでまた「歌聴きたいです」と。嬉しいね!他の 子たちも近づき、他愛のない話が続いた。心の不安も消えていくようだ。とにかくケラケラ笑い可愛い。3人の天使に囲まれているうちに、ウジウジしていた自分が小さく見えだした。
『そうだ!もっとおおらかに考えればいいんだ』と思うことが出来た。そんな答えを引き出すことが出来たのも、この天使のトリオに出くわしたからだね。本当にありがとう。天使さん。
左大腿筋ねん挫゙
不安の中の練習
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1985年8月24日(土)
滝川市から美唄市を経て岩見沢手前 峰延まで 37Km 31,300歩 晴れのち雨
滝川駅前で目が覚めた。朝の風がさわやかで涼しい。何となく秋を感じさせる香りがする。大きく背伸びした。フーっと吐息を吐きだしながら左足を恐る恐るゆっくり動かし、歩いてみる。『よかった〜!』と心が叫ぶ。なんとか走れそうな気がする。もちろん無理はできない。
元気な血液が体を駆け巡る。よっしゃ〜まずは腹ごしらえと牧人に笑顔で好調をアピール。車で弁当屋に行き、シャケ弁当にハンバーグを買い込んだ。牧人は隣で笑ってる。そして、ゆっくり食べた。パンとハムはもう飽き飽きしてたからね(笑)。食欲もある。体も重くない。公園で顔を洗い、歯を磨いて、さぁ〜出発だ。
午前9時20分、空知橋を渡り、砂川市に入った。ここからの12号線はただただ真っすぐだ。少なくとも今日の予定ゴール地点までは、右にも左にも曲がる事はない。いや〜な感じだよね。牧草地帯で経験したことだが、ただ真っすぐは非常に走りにくい条件なんだよね。だって遥か彼方が行けども行けども変わることなく見え 続くのだから。『本当に北海道は広いもんだ』とこころで吐き捨てた。
一直線に続く道なのだが、街の中に入ると、家がポツリポツリあり人も時々居たりする。中には立ち止まって拍手しながら「頑張れ」とか、家の中から声援してくれたりしたので、気合も入る。本当にこれが嬉しくパワーの源になるよね。街を過ぎると自然の中に包まれ、景色の変化に牧草地帯より同じ直線でも全然走りやす い。不思議なことに左足の痛みも出ず快調だ。昨日の痛みはなんだったのだろう?と感じるほど。でも、気をつけないとね!すぐ調子に乗るタイプだから!!
美唄市に入る頃暗い雲が空いっぱいに広がり始めた。『これはひと雨来るな!俺にとってはラッキーかもね』と。その時、稲妻が走り大粒の雨が降り出した。「Yeah〜!」。
通りがかりの人々は新聞紙や雑誌を頭に乗せたり、軒に駆け込んだりしている。
しかし俺はあまりの気持よさに得意満面。雨に打たれ暑さを忘れ、汗を洗い流してくれる雨に感謝です。
そんな気分に調子に乗り少しスピードをあげた。とたんに左足が急に痛みだした。あぁ〜どうして学習できないのだろう!さっき自分自身を戒めたばかりなのに、本当に大馬鹿である。痛みは急速に激しくなった。心の中では今日の目標を岩見沢を通過して江別までと考えていたが、却下した。
無理は禁物。岩見沢手前の峰延と光珠内の中間で即ストップした。
一直線に続く道゙
途中に日記タイム
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1985年8月25日(日)
峰延から江別市豊幌町まで 27.5Km 30,400歩 3時間25分12秒 晴れ
うす曇りの朝を迎えた。肌寒さを感じてグッと身を引き締めた。
峰延駅前であくびをして、ちょっと屈身してみると左足の痛みを感じない。でも、札幌に近づきたいとはやる心を抑えた。
牧人も心配なんだろうが、あえて何も言わず、いつものように陽気だ。朝食を取りに岩見沢に車を走らせた。車の中から見る空に晴れ間が見え始めた。暑くなりそうな空を眺めながら、「あぁ〜」とため息をして、一本の煙草に火をつけた。
午前10時にランスタート地点に戻り、軽くマッサージを受け、10時半走り始めた。ゆっくりゆっくり、調子はまずまずと思いながらの滑り出しも、9K地点で、またも痛みが激化。心の嘆きと闘いながら、歩くことを決意する。
どんなに時間がかかっても一歩前に出る足は、確実に札幌に近づく。そう思うとやっぱりちょっと走りだす。悪循環この上ないと思うのだが、揺れる心を抑えきれない。だから痛みは鋭くなり、激しくなっていく。完全に自分を見失いかけている。
牧人は、それを察してか、能天気を装い「まことさ〜ん、昼飯なにを食べます?」「うんん」「今日は道産子ラーメンなんてどうですか?」やさしい奴である。
午後1時30分頃、ラーメン屋によって昼食。なぜか食欲がない。なんとか半分だけ食べてボーっとしていた。すると突然、店主が色紙を持ってきた。笑顔で答え、縦断の目的などを真面目に答えていると、他の客もサインを求めてきた。
心の中は、左足の痛みで心中穏やかではなかったが、明るく振る舞った。するとそこに居た人たちがみんなレコードを買ってくれたのだ。今、自分がやっている本当の目的がレコードのキャンペーンだと言うことに気が付いた。そうだよ、少しくらい日程がずれても歌い走る事がこの縦断の目的なんだと気付き、この人々に感 謝した。
さて、牧人から事務所の伝言で、電話ひとつしていない東京の家に電話してやってほしいとの事だった。なぜか、いやな気がした。
公衆電話を探し電話した。久しぶりに聞く妻の声はやはり沈んでいた。
そうだよね、小さな絵里花(娘)はまだ1歳。そんな家族をほっぽり出しているんだから!妻は電話の向こうから「元気なの?」「オー絶好調。頑張ってるよ」と明るく・・!そしてちょっとした会話の後、妻は「本当はお母さんとの約束で内緒だったんだけど、あなたの出発前にお父さん入院したの・・!知ってた方がいい と思ってね」と。「・・・・!」。言葉が出なかった。でも、どうしようもない。ただ妻に「よろしくと頼む」と言うだけが精一杯だった。
そして、また妻が、六本木の忠ちゃんにも電話してあげてと言う。「なんで・・?」「何か急用があるんだって!」。なぜか!また心が騒ぐ。いや〜な空気を感じた。
忠(加藤忠太郎 我が友)に、そのまま公衆電話から連絡した。忠の声を聞いた。そして忠は「こまわり(仲間の芸人)が死んだ。」と一言。「・・・・」。
その後、忠と何を話したか覚えていない。ただただその場で泣いた。泣くしかなかった。こまわりはニュースで言っていた日本航空大阪行き123便に乗り合わせていたという。
あの大事故の前の日(8月11日) 新宿ルイ—ドライブに来ていてくれたのだ。しかもその日の大阪行きをキャンセルして翌日(8月12日)に変更しての事だった。
神様は俺が嫌いなのか!?
午後2時30分走り始めた。走りながら泣いた。ただ絶望感が募るばかり。親父の事、こまわりの事が頭の中をグルグル回っている。足の痛みも忘れて走ろうとした。しかし、もう俺の心も体も壊れていた。江別市豊幌駅前で、断念した。
痛みに耐えで
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1985年8月26日(月)
本日の走り中止
『こまわりが死んだよ』『あなたのお父さん2〜3日中に手術よ』・・・・・汗びっしょりかいて目が覚めた。夢を見ていた。あたりを見渡す。久しぶりのベットの上に寝ている。時計を見る。午前7時30分。あぁ〜昨夜は、かなり酔っぱらった。そうか牧人の計らいでホテルに泊まったのだ。体と心の気力は完全に失せている 。窓の外はかなり強い雨が降っている。涙が流れてくる。何故こんなにも苦しめられるのだろうか?
ゆっくり記憶が戻ってくる。そうか、昨夜は札幌に車で移動して、キャンペーンライブを「札幌スコッチバンク」でさせてもらったのだ。たくさんの方たちが来てくれた。しかし、心の悲しみからどんなライブをやれたのか思い出せない。ただ終わってから、すすき野で酒をシコタマ飲んだ事は覚えている。
フッと何かの気配を感じた。誰もいないのに気配を感じる。「こまわり?」・・・・!
こまわりが居るように思った。すると声が聞こえた気がした『まことさん頑張れよ』って。また、「こまわりだろ?」と声を出した。こまわりが来ているような気がする。いや、会いに来てくれてるんだろ!そして俺を一生懸命勇気づけてくれているようにも思えた。とめどもなく涙が流れてくる。あぁ〜分かったよ。おまえ の分まで頑張れって言ってるんだろ!あの日(8月11日)本当はおまえは大阪に行くはずだったのに、『全国縦断なんてバカな企画をするんじゃ、もしかしたら最後のライブだね』と言って笑って来てくれた。そして大阪行きを12日にずらした。あぁ〜・・・・・!
昨日、忠が電話で言ってくれたよ。「こまわりの分まで頑張れ、でないとこまわりがうかばないぞ」と。そうだよな、負けるもんか!こまわりの為にも走って歌うよ。お前の死を無駄死にさせない。頭を切り替えよう。とにかく今できる事をしよう。一発大声を出した。そして、涙をふいた。
牧人は俺を気遣っているようだ。でも、もう心に負けないと誓った。
11時50分、迷いに迷って市役所を訪れた。そして市長の一筆を貰い、ビクターの営業所に出向いた。すると取材の申し込みが2社15時頃あると言う。嬉しいことだ。ならばその時間までには時間が空いている。牧人に提案した。「空いてる時間に札幌中央署にいかないか?」フッと思いついたのが、北海道の道の多くに黄 色の大きな旗がなびいている。あの旗を貰おうと思ったのだ。その旗を車の前に付けて走れば交通安全の祈願にもなる。航空事故も交通事故も同じ事故だからきっとこまわりも喜んでくれるだろうと思ったのだ。
そして、中央署に行き署長に日本縦断の意味、沖縄まで北海道の旗をつけて行きたい事を告げると、「よろこんで」と旗を手渡してくれた。
この旗をこまわりとしよう。お前をつれて一緒に沖縄まで行こう。
心が切り替わっていく思いがした。
15時からホテルオータニのロビーで地方紙2社から取材を受けた。前日までの事、これからの計画など話題が中心だった。質問されて答えているうちに自然と熱が入って来た。まだ始まったばかりの日本縦断。これから先、まだまだとてつもない壁の前で身動きできなくなるかもしれない。でも、負けない。絶対に沖縄まで 負けないと心に誓った。
今、江別神社に身を寄せている。今日はここで野宿する。きっと神様は俺に強い意志を誓わせてくれたのだろう。今日ここに来れたのも何かの因縁かもしれない。
父の手術の成功、家族の幸せ、こまわりの成仏を祈り眠りに就いた。
明日を見つめて
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1985年8月27日(火) 豊幌駅前から銭函手前5K 曇り 小雨
1.10:50 豊幌駅前スタート(国道12号)11km地点 野幌 1時間05分45秒 向い風
2.14:30 野幌駅前スタート(国道275、274、5号)32km地点3時間00分43秒
3.17:15 スタート(国道5号)41.8Km地点
トータル 41.8Km 38,100歩
目が覚めたのは、江別神社の駐車場だった。曇り空だったが、時折り小雨が降り出したり、陽が顔をのぞかせたりと落ち着かない空模様だ。
心も切り替えた。左足の心配はまだ感じているが、とにかく前に進もう。
一つラッキーな事は。江別のラドン湯の風呂に入ってから、左足は不思議と痛みが和らいでいた。
ランスタート地点に向かう。体はだるいが、それも気持ちの持ちようと考え、豊幌から野幌までゆっくり様子を見ながら走る事にした。牧人は洗濯物がたまっていると言うのでコインランドリーを探しに先に野幌へ向かった。1時間後、野幌駅前に入る角で待ち合わせることを決めた。
ゆっくりゆっくりと走る。体が少々重いうえ、左足の事がまだ気掛かりだ。それでも11K地点までは痛みもなく、順調だった。午後2時30分、2回目のスタート。なぜか心の気持ちを整理出来たようだ。少し気分が楽になっている。8月11日の新宿ルイ—ドのテープを聴きながらちょっとリラックスしたせいだろうか?。
国道12号に別れを告げ、国道275号に突入した。札幌新道を通る予定にした。この方が小樽まで行くのに楽だと読んだからだ。とにかく昨日の休みの狂った日程を早く取り戻したいと言うのが正直な気持ちである。
左足をずっと気遣って走って来たが、札幌新道に入って、それが完治しているように感じてきた。なぜなら走りがとても調子がよくなって来ていたからだ。足が軽い。呼吸も乱れない。スピードが自然と上がって行く。ランナーズハイとはこの事だろう。
1台のバスが俺のすぐ傍らを通り抜けて行く。そのバスをどういうわけだか、追いかけるハメになった。バスの後部座席には高校生が乗っている。もちろん男子なのだが、その高校生達が俺に手を振ったり、何か一生懸命声を掛けたりしている。何を言っているかは分からないが、笑顔で気分がいい。そのバスをバス停で抜い ては、また抜き返される。そしてまたバス停で追い付く。4〜5Kmほどそんな状態が続いた。調子がいいので楽しい。それに左足は痛みもなく、自分でもびっくりするほどスピードに乗れるのだ。2〜3日前のいろんなことを考えると、まるで嘘のように快調である。頭を切り替えることが出来た事が弾むような足取りになった証なの だろう。すべてをいい方に考えるようにした。なぜならみんなが応援していてくれる事がわかったから!
そうだ今日は縁起のいい銭函で野宿しよう。
交通安全の旗
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1985年8月28日(水) 起床7:30 就寝22:00 雨のち曇り
銭函手前5Kから余市町(塩谷の浜) 37km 3時間31分27秒 トータル33,500歩
1.10:40(手稲山口)スタート→国道5号(13.8K地点)1時間21分35秒 13,400歩
★張碓トンネル(1km)工事中、走行不可能
2.12:50(張碓トンネル出口)→国道5号(20km地点)2時間01分26秒 6,700歩
3.16:40(小樽駅4K手前)→国道5号(37km地点)3時間31分27秒 13,400歩
銭函駅前は雨が降っている。気分的はめいる感じ。気合を入れて外に出る。霧雨の中、通勤していく人々が我らの車をいぶかしげに見て、駅に入って行く。古い小さな駅である。でも名前がいいね「銭函」だもんね。これは土産にもなるし記念にもなると思い駅に入って切符を5枚買った。
雨の様子をうかがいながら10時にランスタート地点に行き、車の中でマッサージを受けて10時40分霧雨の中スタートした。
霧雨に肌がココナッツ色に輝く。まだ少し気になる左足を気にしながらゆっくり走り始めた。上り坂がやたらと多い銭函を過ぎ、桂岡と言うところまで来て少し休んだ。そして水をゆっくり飲み、また走り始める。長い長い登りが続く。しかし左足は痛まない。調子もまあまあだ。昨日の調子の良さに比べると少し疲れはある ようだが、ひとまず安心した。
13.8km地点、張碓トンネル入り口に来た時、先に車で待っていた牧人が外に出て、走行不可能のサインを送ってくる。近づき「どうした?」と聞くと「この車の多さとこの工事の状態だとトンネル内はかなりヤバいので、ここだけは車に乗ってください」と言う。
「うんんん〜」と考え込んだ。『これでは縦断にならないじゃん』。しかしこの目に映る工事の光景や大型トラックをはじめ車の数も多い。もちろん排気ガスもかなりキツイ。やはりどう見てもこのトンネルは走れないと判断するしかなかった。
断腸の思いでトンネル1km弱を仕方なく車で移動した。この1km弱が列島縦断で唯一ワープした個所になるかもしれない。心で歯ぎしりした。が、しょうがない。
トンネルを出たところで走行再開した。今度は小樽まで下り坂。右手に海を眺めながら坂を下って行く。美しい。そして午後2時近くに小樽に入った。
まずは昼食をとり、いつものように市役所にアポなく飛び込んだ。
受付で随分永い時間待たされた。市長は出張、助役は公務多忙という理由で初めて面会を断られてしまった。
しらけた気分だ。断られるのはしょうがないとしても、何故こんなに永く待たされたのか不思議だった。が、よく考えるとこれまでが運がよかったのかもしれないと思った。
午後4時40分再スタートした。
これから余市に向かって前進あるのみだ。上り坂がいつまでも続く5号線。車の数が多い。ひたすら路面を見据えて走る。調子はすこぶる良い。いくつかのトンネルも何の支障もなく通過した。しかし、トンネル内は幅が狭く、真っ暗で前も見にくく、車が後ろから近づいてくる騒音は半端じゃなく怖い。きっとトンネルの怖 さは沖縄までずっと同じだろうね。
夕方、曇り空ではあったが、暮れなずむ塩谷の浜辺にたどり着いた時、その美しさに牧人とふたり見とれてしまうほどだった。今日はこの浜辺に野宿しよう。
銭函駅゙
走り終えて
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1985年8月29日(木) 起床8:00 就寝:2400 晴れ
余市町5km手前から岩内町5K手前 距離:45.5km 38,700歩 3時間48分37秒
1.10:30(余市町手前 塩谷の浜)→国道5号(14K地点)1時間10分32秒仁木駅前
2.14:15(仁木町駅前)→国道5号(30K地点)2時間35分21秒
3.16:30 →国道5号・229号(45.5K地点) 3時間48分37秒
波の音で目が覚めた。岩場と海が一体になっていてとても美しい。晴れているのにちょっと寒いくらいだ。少しづつ秋が近寄ってきている気配を感じる。
浜辺に出て海を見つめていた。『親父はその後どうだろう?』『家族は元気かな?』『こまわりの葬儀は無事終わっただろうか?』とセンチな気分になる。いかん!とにかく頑張ろう。ヨッシャ〜、気分を変えよう。両手を大空に伸ばし大きく深呼吸する。空気がうまい。オォ〜元気になって来た。
車で近くのセブンイレブンに移動。シャケ弁当とインスタントの味噌汁を買った。最近のインスタントは馬鹿に出来ないね。美味い。
午後10時にランスタート地点に戻った。いつもの牧人のマッサージ。『心なしかうまくなった様な気がする』が黙っていた。
10時30分さあ、今日も元気にスタートだ。屈伸にも気合が入る。
出来れば今日のうちに日程を元に戻したい。海辺を走り余市市に入る。ここから山の方向に向かい、仁木町を目指した。山あいの道で坂道が多いと考えていたが、意外に平坦な道が続いていた。
仁木町で休憩し、木造の小さな役場に寄る。町長さんは留守だったが、助役に一筆頂いた。
午後ランの再スタート地点に戻り再スタート。驚くほど調子がいい。数日前の事を思い出すと天国である。足が宙を舞うようだ。仁木町から7〜8km地点まで進んだ。目の前にだらだら上り坂が視界に飛び込んできた。とうとう来たなと言う感じ。
しかし、調子のいいせいか、ためらわずに突き進んだ。呼吸法を変える。例の二回吐いて大きく長く吸う方法。体は前屈して歩幅を小さくする。気持ち悪いほど走行が乱れない。笑顔さえ漏れる。
「パパパパ〜」と。大型トラックのクラクションに手を振る余裕さえある。登り坂の途中、工事中のおじさんがニコニコしながら「オー頑張れよ」の言葉に「ありがとう」と答えた。風が気持ちがいい。腕を振る。カチカチ万歩計。楽しいね!気がつくと頂上らしきトンネルが見えてきた。1280mと表示があった。こんな に登ったのかと思った。
そこで不安がよぎる。見るからに狭そうなトンネルが前方に立ちはだかる。しかし、ためらわず突進していった。
突入した途端、恐ろしさで身がすくんだ。大型トラックも普通車も道路いっぱいに猛スピードで追いかけてくるではないか。腕が壁にぶつかるくらいまで端にへばりついて走る。一歩前も暗くて見えない。後ろから怪獣が襲ってくるような騒音。足元が明るくなったその横を車が過ぎて行く。息を大きくしたくてもトンネルの 中は排気ガスが充満していて出来ない。恐怖におののきながら慎重に前に進む。5〜6分程度だが、それはそれは永く感じた。
トンネルをやっと抜け、心が安堵した先に長い下り坂が待っていた。この数カ月で学習していた。それは下り坂こそ足を痛めやすいので気をつけて走ろうと。
それから快調に10kmほど下っただろうか?一台のワゴン車が追いかけて来てクラクッションを鳴らした。そして俺の前で止まった。仁木町役場で挨拶した35〜6歳の男性だった。
「君のレコードはいい曲か?」と話しかけてきた。「もちろんですよ!CMソングにもなってるんですよ」と答えた。俺の声は弾んでいた。「ちょっと歌ってよ」「ここで・・・!」「そう」・・
厄介な事を言うよな〜と思いつつサビのところを大きな声を出した「♪このまま抱きしめて〜このまま抱きしめて〜♪」。その人は目尻を下げ聴いていた。「いいねぇ〜本当にいい」と言ってレコードを買ってくれた。もちろんサイン付きで。そして帰り際「テレビに出るの楽しみにしているよ」と言って去って行った。共和 町手前のハプニングであった。
嬉しかった。とても嬉しかった。
その後は、体調以上に調子は上がり、岩内町まではただただリズムに乗って走る事が出来た。
夕食に入ったラーメン屋さん『青龍』。店のご主人が「このキャンペーンを新聞で読んだよ」と言って御馳走してくれた。お気遣い感謝!
今日も元気でスタード
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1985年8月30日(金)
岩内町5km手前から黒松内町(湯別)まで トータル43.3km 38,000歩 曇り時々晴れ 3時間43分05秒
1.10:10(岩内町5km手前)→国道229号(22.7km地点)1時間53分00秒
2.16:30(22.7km地点 港)→国道229号(43.4km地点ゴール)3時間43分05秒
岩内町は大きな街だった。昨夜「青龍」の御主人に紹介してもらった国民宿舎の温泉から岩内町が一望できたが、夜景もまた素晴らしかった。風呂につかり地元のおじさんと何気ない会話。夜景も素晴らしかったが人ものんびりしていて楽しい。街の明かりと港の明かりのコントラストを楽しみながら鼻歌を歌ってた。牧人が ・・・「演歌ですか」と。風呂の湯を掛け合い、ふたりでふざけあって笑った。この風呂が旅の疲れを癒してくれるような気がした。
岩内町の警察近くの空き地で目を覚ました。今日も一日の安全を誓った。そして東京の方を向いて家族の安全も願った。
曇り空が今にも泣き出しそうな気配。『なんだかヤダな!』
午前10時10分ランスタート。30分走ると岩内町に入った。昨夜のラーメン屋「青龍」に立ち寄りお礼を言って役場に出向いた。
岩内町町長に会う事が出来た。二言三言話をしたあとサインしてくれた。写真を一緒に撮る際、スーツを気にしたり、ポーズをとったりとユニークな町長だった。
午前11時30分、役場を後にした。これから寿都(すっつ)町まで40km海沿いコース。楽しみながら走れると思っていると、すぐに見えたのがこのところ苦手なあの怖いトンネルだった。
それが運が悪いとでも言おう。行けども行けどもトンネルばかりが続く。しかも人が歩けるようなスペースのない狭い道幅だ。その中をいつものようになんの配慮もない大型トラックやバスがひっきりなしに猛スピードで走り去って行くのだからたまらない。真っ暗なトンネルの中、恐ろしいほどの轟音が近づくや壁にへばり つき、走るのもやめ、通り過ぎるのを待つ。しょうがないよね死にたくないもん。
でも、いやなトンネルばかりではない。右側の海が見えるようになっているものもあり、まるでトンネルの陳列場のようなコースである。
こんなトンネルオンパレードが10km以上続くわけで、精神的にも肉体的にもくたくたになっていた。
午後2時牧人の指示で昼食休憩をとった。
午後4時30分再スタート。肌寒い。しかし逆に快適。体調も悪くない。スピードが上がって行く。こうなると楽しい。トンネルも牧人の地図上では残りは少ないようだ。
だが40km近く走り込むとさすがに体力が落ちてくる。牧人が「あと7〜8km走れば当初の日程に戻ります」と嬉しそうに俺を励ます。しかし、それを聞いている俺自身に異変が起こりだしていた。めまいがする。スピードはガクンと落ちた。真っすぐ走れない。集中する。『どうしたの〜?なんで??』と思いながらも進む 。牧人が「たぶん今日これが最後のトンネルです」と言ったとき体のバランスが崩れた。
少しストレッチをしながら『どうしたんだろう?』と考えるが、めまいがする。それでもまた気持ちを集中してゆっくり走りだす。
体と心の戦いが続く。でも『日程が今日で戻る』と思うと足が前に出る。
道路際にひとりのばあちゃんが立っていた。力を振り絞って「こんにちわ」と言うと、のんびりした声で「ご苦労さん」と答えてくれた。そしてそのばあちゃんが俺を呼びとめた。「お兄さん、トマト食べないかね!走りながらも食べれるから持って行きな!」と言った。振り向き、ゆっくり歩きながらばあちゃんのところに 戻り「ありがとう」と言ってトマトを一つもらった。
夕暮れの中、走りながらトマトにかぶりついた。『美味い!!』
顔中トマトだらけにしながらほうばって走った。するとまか不思議。めまいが治まり元気が出てきた。『そっか!これがハンガーノックってやつか!?』。
トマト一つ食べて体の体調は戻り、足のリズムが戻って来た。寿都(すっつ)町に入り強い風とどす黒い雲、そして寒さを感じながらも快調に走る事が出来た。まさしくトマトパワー。とうとう日程を取り戻す事が出来た。
魔法のトマトをくれた見知らぬばあちゃん、本当にありがとう。
もうすぐ日程が取り戻せる
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1985年8月31日(土)
黒松内町湯別から長万部駅前 33.2km 29,950歩 晴れ時々曇り
1.13:00(黒松内町湯別)→道道9〜5号(23km地点)2時間04分44秒
2.17:40(23km地点)→道道5号(33.2km地点 長万部駅前)2時間55分22秒
昨夜からこの日記張の整理を始めた。事務所も宣伝としていろいろ考えているようだから、毎回いろんな事を言ってくる。まぁ〜しょうがない俺の為なのだから…!しかし、この日記整理が意外と大変である。日程自体、朝から役所回り、レコード店まわり、食事、そして平均40km近くのラン予定。予定地に着いたらまず、 野宿先を決め、風呂屋を探し、牧人は洗濯、少ないお金で食事する。もちろん歌の練習だって欠かさない。今のところ夜のキャンペーンは少ないが本州に行けば計画はさらに過密になる。
なんだかんだと整理しているうちに、朝から昼過ぎまで整理にかかってしまった。
今日は長万部まで30k位の予定だから余裕はある。それも体の調子がいいせいなのか、走る距離感が馬鹿になったか!30kmが大した距離に感じていない事の方が恐ろしい?
カーラジオでは昨夜本州では台風が上陸すると伝えていたが、東京の家族は、大丈夫だろうか?
北海道のローカルラジオ以外、テレビや新聞も読まず、この縦断に集中している。それは余分な事を考えたくないからである。日航機墜落の報道や記事もほとんど見ていない。こまわりの事を考えると特にである。
しかし、天気予報だけは気になるね。北海道はこの日から台風の影響があると言っていたが、空を見る限り心配は無用のようで、空はスカイブルーの気持よさである。
牧人は俺が日記の整理中、洗濯をして来たらしい。そしてやはり空を見て「これなら大丈夫そうですよ」と言う。
午後1時にランスタートした。やはり風は少し強くなり向かい風、この向かい風が意外と長い距離になるとダメージが大きい。しかし、ゆっくり余裕を持って走る。
自転車ですれ違った4人の若者たち(男子)、バス停で佇む老人、道路工事のおじさん、おばさん、乗用車から手を振りながら声をかけてくれるおじさん、クラクションを鳴らす大型トラックの運転手さんと、今日は声援が多い。
もしかしたら、札幌での取材の記事が載ってみんな知ってくれているのだろうか?
それにしても観光客以外の人達にこれだけ応援されたのは初めてだ。
食事を黒松内町ですることにした。
ここでどうしても触れておきたい事がある。「サッポロラーメン」についてだ。
北海道だからこそどうしても食べようと思うのは「イクラ丼」「うに丼」「かに麺」そして「サッポロラーメン」だ。
東京を出て早20日。外食は少ないが、外で食べるとなると価格の問題もある。だから、どうしてもラーメン屋に入ってしまう。俺もラーメンは大好きだけど、牧人は三食ラーメンでも大丈夫と言うから、ちょっとそれにはついていけない。
さて、いままですべてのラーメン屋が美味しかったわけではない。それでも、比較的うまいラーメン屋は多かった。
本州のサッポロラーメンは麺が太いが、北海道では、麺がそう太くない。自分の好みが細麺が好きだから美味い尺度もひとつそこに行く。
さて黒松内町の「松龍」の味噌ラーメンは特に美味かった。ここの主人曰く「ここから下(函館方面)に行っても、もうラーメンのおいしい店はないよ」と豪語したが、この店の味は、その口ぶり通りうなずける味だった。
そう言えばサッポロラーメン横丁で食べたラーメンはハズレだった。その店がハズレなのだろうが、カッコばかりで心を感じなかった。それより客の多さには驚いたけどね・・・!
ここまでの旅の中での独断と偏見による結論を一つ。
特に美味かった店は、留萌手前の小平町の松雲亭と、この黒松内町の松龍の味噌ラーメン。これは絶品と牧人と意見があった。
この二つの店の共通点は、主人の人柄が気さくで、とても明るい。
そんな流れの中で、主人とママと仲良しになり、レコード・Tシャツまで逆に買ってもらい、楽しい雰囲気の中で「今度来た時は、是非歌を聴かせてね」と言う声に見送られて黒松内町「松龍」を後にした。
これから長万部まで20kmある。牧人曰く、「上り下りはあると思いますが、そうきつくないですよ」と言う。信じよう。
車が少ないので、牧人は車を俺の後ろにピッタリ追走する。5kmほど走ると5号線にぶつかった。ここからは車の数がおびただしい。しかし、不安もなく快調にひた走った。
途中、二股で休んだ後、長万部まで直進した。
駅前に着いた時には、すっかり日が落ちていた。駅前で牧人は、すかさず長万部温泉の看板を見つけ料金を確認していた。
このキャンペーンの余得の一つは、こうした温泉を300円ほどで浸かれる。だから心も癒される。ちなみに長万部温泉も岩内と同様、塩分の効いた温泉だった。
今日の野宿先は、駅横にある駐車場。
なぜか、ゆっくりと雲行きが怪しくなり始めた頃、眠りに就いた。
8 月最後の日も残暑
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1985年9月1日(日)
長万部駅前から八雲町 30.5km 26,400歩 台風
1.11:00(長万部駅前)→5号(10.1km地点)国逢 54分17秒
2.16:30(国逢)→5号(30,5km地点)八雲町 2時間37分29秒 26,400歩
ただただ広い草原にたった一人、佇んでいる。いきなり大小の流星が自分を打ちのめす。激しく降り続くので頭を抱えてうずくまる。真っ暗な世界だ。『親父!!こまわり〜ここはどこ?!』
突然、太鼓の音がドーン、ドーンドドドドドーンと響いてきた。『やめてくれ〜!』と耳をふさいだ。
・・・・・・・あぁ〜と目が覚めた。夢だった。
目が覚めた車の屋根に大粒の雨が激しく打ちつけていた。朝8:00なのに薄暗い。
前夜、駅横の駐車場から移動して長万部の神社に居た。車の窓に張られた自分のポスターの隙間から外を見ると神社は、雨で湖のようになっている。ラジオをつけると、台風13号上陸の模様を伝えていた。
・・・・『やっとの思いで日程を取り戻したのに、台風ごときにつぶされてしまうか!?』
と心で叫んだ。
牧人は起きていて、俺に「これは無理ですね」と止める。
が、俺としては、いつまた走れなくなるか分からない。そう思うと、台風だろうが走りたいと思う。いや、台風だからこそ走りたい。心のどこかで台風を楽しんでいる心もある。「大丈夫、走ろう」と牧人の反対を押し切り出発した。
午前11時、猛烈な風雨の中でスタートした。激しい雨と風で10メートル前方すら見えない。対向車はみんなライトをつけ、減速して走っている。雨は容赦なく体に打ちつける。針に刺されるような痛さだ。牧人は心配そうに俺の後ろからピッタリくっついてくる。追い越して行く車が、路面の水たまりをびしゃびしゃ引っ かけて走って行く。
突然、横風が体を吹き飛ばしてしまうぐらい体当たりしてくる。体のバランスを取るのがやっとだ。風に負けそうになる。負けると、車に引き殺される。本当に走るのが精一杯だ。足元は水があふれ川のようになっている。いつもの倍以上の体力がいる。
それでも何とか10km走った。しかし、雨と風は激しくなるばかりで、とうとう走るのをやめる決意をした。あわてて車に避難したが、車も吹き飛ばされそうに、ゴトン、ゴトンと揺れている。
「どこかに避難しよう」と牧人に伝え、シャッターの閉まりかけたスーパーに飛び込んだ。ラジオでは別の12号が明日も北海道を襲うと言っている。
冗談ではない。だが自然には勝てず、とにかく水とカップ麺を買い、車に積み込み国逢(くにぬい)駅に避難した。ラジオは14時30分台風上陸を伝えていた。
この際、いい方に考えよう。ならば体を休めようと、車の中にボンボンベットを広げて眠った。牧人は、運転席でラジオを聞き入っていた。横風に揺られながら、いつの間にか眠りに落ちた。台風の中、やっぱり疲れたんだね。
目が覚めたのは、午後4時前。風はやみ、雨も小降りになっていた。牧人に「台風の眼の中かなぁ〜?」と聞くと「いや、通り過ぎたと思います。でも、まことさんが寝てる時が、ピークでしたよ」と後ろ向きで言った。
ならば今から少しでも走ろうと思って外に飛び出した。南の空には、青空も広がり始めていた。
八雲町までどうしても行きたい。そして、午後4時30分に再スタートした。きっと6時を過ぎれば暗くなってしまう。パワー全開で走る。左足のかかとに少し痛みを感じるが、調子はまずまずだ。
黒岩まで来た。雲間から夕日が顔をのぞかせている。心まで晴れてきた。たぶん今日は八雲町まで行けそうな気がして来た。天候が回復した夕暮れ、車からの声援に励まされながら頑張った。
時間の過ぎるのは早い。日暮れの八雲町に着いた時、秋の香りが漂っていた。
台風は去ったのだ。
台風にも負けず
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1985年9月2日(月)
八雲町から森町駒ケ岳 44km 40,700歩 快晴
1.10:15(八雲町)→5号(16.2km地点) 1時間23分46秒
2.14:00(16.2km地点)→5号(28.7km地点) 2時間27分35秒
3.16:30(28.7km地点)→5号(44km地点)森町西山 3時間55分52秒
秋晴れという言葉がある。
今日の朝の空のような事を云うのだろうね。雲ひとつない青空は透き通るように眩しく、そしてさわやかだ。台風一過の空は大抵こうしたすがすがしい事が多い。
八雲町営駐車場、午前6時50分に起床。朝の日差しが燦々と降り注ぐ中、広い駐車場で背伸びした。
見渡す広い駐車場には、我々の車以外に3台。トイレを探し、顔を洗い、眩しい光に目をこすりながら大きく深呼吸した。『今日も無事でありますように』。
駅前に移動して弁当を買って休憩していると、いかにも怖そうな男がちらちらとこちらの様子をうかがっている。牧人に「あの二人無視しろよ」と小声で言った。
見て見ぬふりをしながら弁当を食べていた。するとこちらにやってくる気配。『やばいかも』やな予感!。派手なシャツが風になびく「兄ちゃん、レコードのキャンペーンかい?」と。「キャンペーンだったらもっと車を派手にして、兄ちゃんの音楽流さなきゃ〜ダメだよ」と。『大きなお世話!』と心で思いながらも、たぶ ん、ひきつった笑顔を浮かべている俺。
「どんな曲だい?」「いい曲かい?」・・・・とにかく、うるさく話をしてくる。なんとかここから抜け出したい。牧人に目配せして『行くぞ!』とうながした時、その男が言った。「兄ちゃんサインしてくれるかい?1枚買うよ」・・・・・唖然。
買ってもらってからの会話は、ただ盛り上がるばかり。もう一人の男が「君の出身は?」「静岡です」と答えると「俺もだよ。奇遇だねぇ。俺、静岡でコックやってたんだよ」だって。
結局、ふたりが1枚づつ買ってくれ「兄ちゃんがヒットするように祈っているよ」と去っていた。人は外見で判断してはいけないと学習した。
スタート地点の近くには太平洋が広がる。台風の後とあって、海はひと際美しい。
左側に羊蹄山がかすかにに浮かび、右側に今日の目的地、駒ケ岳が揺れている。
10時15分ランスタート。
調子はさほどでもないが、あっという間に1時間半ほど走った。視界に入る風景が美しい。海と空と駒ケ岳。その配置の美しさもさることながら、遠くに望む函館本線がまた流れるようなシルエットを見せている。これから森町を通り森町駒ケ岳まで44kを走破する。そんな途中の景色良いパーキングで昼休みにした。
午後2時過ぎ、再スタート。日差しは真夏のようにとても暑い。しかし、日陰に入ると急に涼しく秋を告げる風が頬をなでる。
呼吸が苦しくなると長く息を吐いてから3度吸いこむ呼吸法に変える。
森町手前では、まずい事に右ひざに痛みが走った。そこにトンネルが現れる。最悪。
トンネルに突入。外の明るさが強すぎるのだろう。暗いトンネルでは、前が見えなくなる事もたびたびだ。目がくらむのとひざの痛みとが重なり、道路側によろけそうになる。左手でトンネルの壁を触りながら走る。
やっとの思いで抜け出した目の前に、上り坂の追い打ち。路面を見据え右足をかばってスピードダウンしながらも走る続ける。
明日、函館で予定通りフェリーに乗るには、今日のうちにどうしても距離をかせがなくてはならないのだ。
ゆっくり走る。土産物屋があった。おばさんが大きな声を掛けてくれるのだが、苦しくて下を向いたまま右手をあげるのが精一杯だ。上り坂は続く。函館まで38kmの表示。牧人が車で横に来て、窓を開け「まことさん〜あと3km走りましょう」と言った。
万歩計の音と、自分の吐く息を遠くに聞いている感じがする。『1kmがこんなに長いんだ』と歯を食いしばり走る。ようやく函館まで35kmの標式のところにたどり着いた時、汗に濡れた体に、秋の夕暮れの肌寒さが心地よかった。
EP レコード
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1985年9月3日(火) 晴れのち曇り
森町駒ケ岳から函館 東日本フェリー乗り場 33.9k 28,500歩 2時間45分22秒
1.11:00(森町駒ケ岳)→5号(16,3km地点)峠下 1時間20分25秒
2.14:00(峠下)→227号(33.9km地点)東日本フェリー入口 2時間45分22秒
駒ケ岳が雲に隠れている。子供の頃、北海道の写真で見覚えのあるものの一つが、この駒ケ岳である。
しかし、今朝は雲に身を包み、その雄大な姿を下界の我々に見せようとしない。
冷たい水で顔を洗い、気持ちをほぐす。
とうとう北海道の朝は、この森町オニウシ公園が最後になる。
過ぎてしまうと本当に早い。昨日までで631.7kmを走破した。今日の距離を足したら北海道、走破距離は670km弱になるだろう。
駅で名物『いか弁当』を買い、町役場、レコード店に挨拶をして、ランスタート地点に戻った。
雲の間から顔を出した駒ケ岳に見送られて快調に出発。今日が最後だと思うと嬉しく調子が上がる。
山の緑に包まれた国道5号線をひた走る。眩しい太陽だが、8月の暑さとは全く違う。とてもさわやかで気持ちがよい。
左手に小沼湖が近づいてきた。大きな山々に囲まれて涼しげで、美しい。
道路わきを走る足をとめた。この夏を燃焼つくした蝶のしかばねが物哀しく風に吹かれている。たった20日余りなのにいろんな事があった。だから余計にこの蝶が、自分の心をセンチにさせる。見あげる空は真っ青なのにね。
ところどころに雲が気持ちよさそうに浮かび話しかけてくる。秋ですね。
函館はもう鼻の先だ。急勾配の上り坂も乱れなく走り続ける。峠の先で、牧人が買ってきてくれたおにぎりをほうばり、最後のラストスパートに入った。
その時、左足の豆がつぶれた。しかし我慢して走る。痛みより北海道走破が嬉しくてたまらい。
東日本フェリー入口に午後3時45分に到着した。牧人も嬉しそうに「お疲れ様で〜す」。まずは、ジュースで乾杯。涙が滲んできた。
親父、こまわり、そして東京で待つ家族に感謝した。
レコード店を回り、市役所に着いたのは午後5時5分前だった。
市長の一筆を貰い、稚内と同じようにネクタイピンをプレゼントされた。
ありがとう北海道。本当に暑い暑い北海道でした。でもたくさんの応援、親切な方々に出逢った事に心から感謝し、明日は本州 東北に上陸です。
北海道最後のランは笑顔
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《本州》 東北篇
1985年9月4日(水) 青森(移動日・休日)
★.北海道完走の喜びもつかの間、3日午後9時25分発の東日本フェリーに乗り込んだ。そして約4時間後の4日午前1時半に本州・青森に上陸した。
『暑いなぁ〜』寝袋の中で汗びっしょりだった。それでも朝の目覚めは良好!すぐさま車から飛び出した。
『ここは本州なんだ!』それだけで嬉しかった。東日本海フェリー青森の駐車場は、北海道と同じように日差しは強く、まだまだ残暑は厳しい。北海道・東北のイメージは『寒い』と思っていたはずが、ずっと覆されている。
今日の予定は、なし。まずは休日。と心は喜んでいた。
牧人が洗面して帰って来た。「おはようございます。東北も朝から暑いですね・・・・」「そうだな!」「今日も忙しいですよ」「・・・・エッ!」。無情の言葉だった。
取りあえず、青森駅に向かい、絵葉書を買って朝食をとった。朝食の時に今日の予定を聞かされた。青森市役所、新聞社、レコード店、原稿書き・・・!窓越しに蝉の声が遠く聴こえていた。
市役所に行き市長の一筆を貰い、東奥日報の取材40〜50分を受けた。記者は背が高く、やせていて眼鏡をかけた40歳前後の人だったがあまりナマリは感じなかった。しかし、見かけとはちょっと違い、せっかちなしゃべりは永六輔。俺の頭の中で取材中にもかかわらず『浅田飴って言ってよ』なんて思い、笑ってしまう ・・・ダメダメ・・・やめた。でも、なかなか鋭い突っ込みのある質問の中、好感のもてる人ではあった。でもこの人の記事でこれからの道中の応援があると思った瞬間、心を正した。
その後、レコード店を回り、いつものように自分のレコードを目立つ場所に置き、レコード店の店主に丁重に挨拶した。そして図書館を探した。原稿を書くためである。
青森図書館は、庭がとてもきれいで、落ち着いたたたずまいである。中に入るとすぐ横に、雑誌などを読みふける人達がいる。反対側は、小・中学生用の部屋だ。そして二階には資料室と言う名の部屋があり、別々に勉強が出来るように机が離れて置いてあった。
牧人は「ゆっくりでいいですから、東京に送る原稿お願いします」と言って洗濯に出かけて行った。
静かすぎる。つまらない。睡魔が襲ってくる。東京の家族は元気かなぁ〜?・・・・いつの間にか寝てしまった。気付いた時は閉館2時間前だった。
午後6時閉館までぎりぎり頑張った。ものすごく疲れを感じた。
「たまにはのんびりさせろよ」とはじめて牧人に文句を言った。
青森駅前の駐車場。駐車場のおじさんに「何時までですか?」と聞いた。「すッつずはん」「エッ!」「すッつずはん」「エッ!!」怒ったように「すッずはん」。7時30分の事?。本場 青森弁をやっと体験した。北海道とは全く違い、言葉でここは東北なんだと感じた時、また嬉しくなった。しかしこの発音は真似でき ないね。
あまり時間はなかったが、駅前を少しだけそぞろ歩きして、久しぶりにビールを買い込んだ。「牧人、今日は宴会だぁ〜」と叫んでいた。
野宿で乾杯
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1985年9月5日(木)
青森駅前から平内町浜子 30.7km 26,650歩 強風 晴れ
1.11:15(青森駅前)→国道4号(17.6km地点 浅虫)1時間30分35秒
2.16:30(浅虫)→国道4号(30.7km地点 浜子) 2時間33分20秒
青森は今日も真夏の暑さだ。駅前は観光客らしき人が多勢いて華やかなのだが、自然の匂いもたち込め気持ちがいい。その人通りの多い駅前に立つ。多くの視線と言うスポットライトを浴びながら、ちょっとスター気分で軽やかに走り始めた。
『人に見られる事がこんなに元気にさせてもらうことなんだ』と思う。やっぱり目立ちたがり屋なんだね!
広い道はすぐに一車線になり狭くなった。走っていて驚いた。道のところどころに『かもしか注意』の標識。青森ならでは、といったところだろう。
峠を過ぎると陸奥湾だろうか?太平洋だろうか?…海が見えてきた。道路に波が打ちつけられ、はじけ飛んでは、その音がこだまする。浜辺といった風情はない。左側に湯の島を仰ぎながら、浅虫に着いた。
浅虫マリンパークの駐車場で休憩にした。おにぎりをほうばりながら、青森駅で買った絵葉書を出して便りを書くことにした。周りから見たらこれが滑稽に見えるだろう。だって駐車場にポンポンベットを置き、地べたに座り込み、はがきを書いているのだから。
でもお構いなしに書いていく。いとしい顔が浮かんでくる。一心不乱にはがきを書いた。
すると神奈川の親友Eの事を思い出した。そうだ、親友は9月4日が誕生日で、毎年この日には決まって電話を入れていたのだが、昨日は忘れていた。
親友に電話を入れた。受話器の向こうから太い声が聞こえ、すかさず「お前生きていたのか?」と心配そうに言った。親友の心の気遣いのほどが伝わって来た瞬間、なぜか涙があふれる。『クッソ、泣くもんか』とグッとこらえた。
こんな旅をしていると、東京での生活と違い、喜怒哀楽にとても敏感になってくる。ほんのちょっとしたことでも感動したり、涙があふれたり、イライラしたりもする。そんな自分を感じて心の中の自分と葛藤する。
親友は話を続けていた。俺が心配だったのが、安心したらしく、いつもよりおしゃべりだ。
親友は、静岡の浜松、沼津、三島そして東京と散らばっている。「8月28日、お前以外の高校の仲間たちとゴルフに行って来たよ」と言う。自分を入れて中のいい仲間は8人。今では、それぞれ家庭を持っている以上、集まる機会も大変だろうに・・・。「それより俺がいないときに、きたない奴らだなぁ〜!」「そうじゃない よ、お前の為にだよ」と。7人は声をそろえて 俺の心配をしていて、いろいろ考えて応援していると言う。
親友は最後に「何が何でも静岡までは、走ってこいよ。俺たちがお前を迎えるから」と言った。
嬉しかった。元気も出た。背筋が小刻みに揺れた。今更ながら、激しく燃え上がる思いを強烈に感じた。『どんな事があっても、静岡までは行くぞ!』と誓い今日のゴールを目指した。
サンルーフの裏には家族の写真
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1985年9月6日(金)晴れのち曇り
平内町浜子から天間林村小又まで 30.5km 26,700歩 2時間36分20秒
1.14:30(平内町浜子)→国道4号(15.4km地点 野辺地)1時間19分29秒
2.16:40(野辺地)→国道4号(30.5km地点 天間林村)2時間36分20秒
「ゴォー〜ゴォ〜」怪獣がいます。
疲れてくるとやはり、イライラもしてきます。
毎日毎日横で眠るマネジャー牧人の大いびきに悩まされています。立ち上がって向こうずねでも蹴っ飛ばしてやろうかと思うのですが、寝顔を見るとあまりに無邪気で、そうもいかなくなる。でもやっぱり腹がたってくる。寝言もでかい、寝ぞうも悪い、狭い車の中では、ただひたすら公害人間の一言に尽きるのです。
あきらめて、眠い目をこすりながら、乗っ取られた俺のスペースを眺め、車外に出た。
ここは平内スキー場にある『レストハウス夜越山』の駐車場の早い朝。
そのレストハウスのバーベキューのテーブルを借りて、朝から日記を整理しはじめ、残りのはがきも書いたりした。牧人はすがすがしい顔で起きてきて、俺の作業を眺め、この街にもレコード店の一つもあるだろうと探しに出かけて行った。
時間を忘れ没頭して気付くと、昼を回っていた。しかし、この場所には、少しも来客がない。
では、世話になっているのでと昼食をここで注文した。すると料理を持ってきたおばさんが神妙に「うちの店長が、向こうの宴会場に団体客がいるので歌ってくれないかと申していますが・・!?』(この会話は青森弁である)。待ってましたとばかり宴会場に行った。
しかし、最悪。
午後1時前で団体客は食事も終わり、出発直前である。それでも店長は、のんびりと笑顔で「よろしくお願いします」(青森弁)と。しかし、カセットテープを入れる機械は8トラ、マイクは音が大きくならず、使えない。『どうしろとって…?』悩んでいると、牧人が走ってギターを持ってくる。キャンペーン曲「抱きしめ て」をすぐさま生で歌いだした。
ところが、お客たちはバスの時間を気にしているからソワソワして聴くどころの騒ぎではない。2コーラス目に入ったあたりから、立ち上がる者も出る始末。
『負けたくない』ここで歌うのが・・・プロ。
でも『あぁ〜負けそう』と思った時、鋭い視線を感じた。そして、その視線の先を見た。
ひとりの中年男性が睨みつけるように聴いてくれていた。微動だにしない。最後のサビにに入った。心を集中して「♪このまま抱きしめて〜このまま抱きしめて〜あぁあぁ〜♪」。
ギターのエンディングの中、あるお客が大きな声で「お兄ちゃん、もういいや」と声を掛けてきた。が、その中年男性の視線は、じっと最後まで俺を見据えているようだ。唄が終わった。
残っていてくれたお客は、バラバラの拍手を残し「うまかったよ」「よかったよ」とありきたりの感想をしゃべりながら通り過ぎて行った。「・・・・・・!」ドッと疲れていた。
ところがまた何となく視線を感じた。振り向いた。すると中年男性が背後から近づき言った。「いい歌を有難う。頑張りなさいよ」と言って手を差し伸べてくれた。言葉が詰まっていた。俺はその中年男性の顔をしっかりと見つめていた。正直言って救われた気持ちだった。
国道4号線は、風が強く、しかも向かい風だった。でも心は楽しかった。いや、何とも言えない嬉しさだった。そして走り続けた。気か付くともう夕暮が近付いている。
今日の目標地点までは達成できそうにない。でも、そんなことより心の中で『何があっても負けない』と言う言葉が生まれていた。負けじ魂が目覚めようとしている。とにかく今日は行けるとこまで走ろう。ただただ心の中で『負けない、絶対負けない』と心の中でリピートして、走るリズムにかわりだしスピードをあげていた。
レコード店を駆け巡る
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1985年9月7日(土)
天間林村 小又から下田町 三本木まで 40km 36,100歩 雨
1.11:00(小又)国道5号→(19.6km地点 十和田市)1時間42分20秒
2.15:00(十和田市)→国道45号(32.3km地点 下田町入口)2時間28分23秒
3.17:00(下田町入口)→国道45号(40km地点 三本木)3時間31分39秒
雨の気配に目が覚めた。「あぁ〜雨か!」気分は落ち込み最悪。しかもかなり寒い。寝袋を首まで上げる。このところ疲れが急に出始め、体のふしぶしが異常に痛む。
寝ながら体を動かしてみる。アキレスけん、足の裏、腰と言ったところが痛む。いや肩こりもあり体がだるい。このところ頑張ってるよな!少しくらい休みたい。しかし、日程通り進まないと、夜のキャンペーンも狂ってしまう。ゆうつな雨の音を聞きながら、なかなか起きる事が出来なかった。
11:00 気合を入れて雨の中に飛び出した。
体がほぐれてこない。それでも10km走った。普通は、このあたりから体があたたまって調子が上がってくるはずなのに、今日はまるでダメだ。それよりひざやかかとが雨に冷やされ痛みさえ感じる。昨日の事を考えると、弱音は吐けない。
とにかく、前を見て走ろう。日程をきちんと消化すれは、一歩一歩東京に近づく。まずは十和田市まで20Kだ。ゆっくりと体の変化を感じながら、気をつけて走った。
体調の悪さを感じたのか、牧人が途中でリンゴを差し入れてくれた。そのリンゴをかじりながら進む。ただかじるのではなく、口にほうばり噛み砕いて、汁だけ飲み込み、あとは吐きだす。リンゴの水分が多く、ノドがうまい具合に潤う。北海道寿都(すっつ)のおばあちゃんのトマトパワーを思いだしていた。
人間の体って凄いね。一瞬で元気になって来る。
しかし、上り下りの道は心までは元気にしてくれない。雨に濡れた体が冷えてくると「なんでこんなにまでして走るのだろうか?」「こんなことをしてもヒット曲なんかでるもんか!」と。こんなこと考えたところで、意味がないとは知りながらも、頭の中を愚痴と言う言葉が駆け巡る。
雨は強くなり、向かい風になる。するとまた心の中の弱気虫のつぶやきが聞こえだす。『あぁ〜俺の心の強気の神、起きてくれ。このままじゃあ、駄目になりそうだ』と心で叫びながらも前に進む。
雨はさらに強くなる。スパイクタイヤの跡だろう。タイヤの通るところのくぼみに雨がたまり、車が通るたびに、俺にその水たまりを引っかけて行く。
悲しく、本当にみじめな思いだ。でも「負けたくない」と歯を食いしばる。また車が通り過ぎる。頭の先から足元まで雨水を引っかけられる。「絶対負けない。自分を信じるしかない」。
いつの間にか、暗くなった道に今日のゴール地点の印をチョークで書いた。40km。よく頑張った。日程通り。
牧人が写真を撮りながら「まことさん今日は風呂屋、もう探してありますから・・・!」と得意げに笑った。
雨の日のゴール
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1985年9月8日(日)
下田町三本木から種市町 38.7km 34,600歩 3時間25分22秒
1.10:10(種市町)→国道45号(14.3km地点)1時間20分29秒
2.14:40(14.3km地点)→国道45号(25.7km地点)2時間21分16秒
3.17:00(25.7km地点)→国道45号(種市町38.7km地点)3時間25分22秒
「わ、列島縦断だって!!」「古代まことって知ってる?」「知らない」「演歌歌手じゃないの」などと言う言葉が若い青森弁でのどかに、聞こえてくる。車の中で横になり静かにぼんやり聞いていた。
日曜日だと言うのに下田駅は学生が多く(多いと言っても限度があるが…)午前7時過ぎにもう「キャキャキャッ」と若いエネルギーを発散させている。ヨシャ〜!いっちょ外に出てみるか。
たむろしている学生達に思い切って「おはよう」と声を掛けてみた。その途端、驚いた顔をして逃げ出されてしまった。純情?純粋?いや俺の言い方?それともウンがついてない?ちょっと拍子抜けしてしまった。
空を仰ぐと、久々に秋晴れだ。
今日も朝から健康。お腹は前と後ろがくっつきそうなくらい空腹だある。2kmほど離れたところに「こがねちゃん弁当」があり、シャケ弁当を買って食べた。値段の割には、とても美味しかった。食事が終わればすぐにトイレが俺の健康バロメーター。下田駅に戻り、トイレに駆け込んだ。あまりきれいとは言えないが、不快 感はない。ただ男女共同トイレであった。
和式のトイレで用を足していると、遠くでとても元気なおばさんの声が聴こえてくる。でも何を言ってるかよくわからないが、楽しそうな声である。なぜか用を足しながら笑ってしまう。その声が一段と大きく笑いながら近づく様子。フッと不安がよぎったその時だった。「バターン」とドアの音とともに朝の光が俺を包みこ んだ。前向きに用を足していたので後ろを振り向くと、大きなふとったおばさんがビクともせず仁王立ちで立っていた。『あぁぁぁぁ~』。しかしおばさんひるまず、一呼吸置いてから、ゆっくり「すびませぇん」と言ってドアを閉めた。『見られた・・・・・!』。
『すみませんで済むかよ』と恥ずかしさと情けなさで、冷たい汗が流れ出る。出るに出られない。遠くでおばさんが大笑いしてる。たぶんこのアクシデントの事をしゃべっているに違いない。
それでも恥ずかしさをこらえて、トイレから堂々と澄まし顔で出た俺に、また遠く売店付近から大きな声でそのおばさん「お兄さん、すまなかったね」(東北弁の発音)だってー。
小さな駅前だが、学生はかなりいたように思う。ただでさえ心が傷つき、それでも無理して気取って外に出たのに、この大声だ。一瞬、みんなの視線が一斉に飛び込んで来た。
さりげなく歩いているつもりだが、たぶん駆け足で車に逃げ込んだように思う。心は傷ついていた。
やっとの事、心を落ち着けランスタート地点に立ったが、なんだかショックから立ち直れなかった。牧人はただただニコニコしている。『いやな感じである』。
それでも気を取り戻し、秋風のすがすがしさの中、八戸をまず目指した。はじめは右ひざが少し痛んだが、八戸を過ぎたあたりから調子は上がり無事日程通り、今日の予定を消化した。
それにしても今日の朝の事を思うと、今でも顔が赤くなるほど恥ずかしさがこみあげてくる。気をつけよう男女共同トイレと、中年女性。そんな心を秋風はやさしく冷ましてくれていた。
秋晴れの中
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1985年9月9日(月) 野宿先:種市町民体育館駐車場 晴れ時々曇り
種市町から久慈市役所前 32.9km 30,700歩 3時間00分13秒
1.10:20(種市町)→国道45号(11.2km地点)59分24秒
2.12:30(11.2km地点)→国道45号(21.7km地点)1時間59分30秒
3.15:30(21.7km地点)→国道45号(32.9km地点)3時間00分13秒
種市町民体育館駐車場の朝。
遠い昔、祖父(与平)に手をつながれ歩いた頃の秋の香り。何とも言えないさわやかなにおいが鼻先をなでていく。忘れかけた香りだった。懐かしい香りにふと目を閉じて、朝の日差しの中でまどろんだ。
種市町はそんなに大きな町ではない。電車も一日上下、10本づつしか駅に止まらないようだ。そんな駅前食堂で待ちに待たされた朝食定食をゆっくり食べた。ここの老婆は無表情にボォーとしていた。そっと窓を開けると、秋の香りがまた、風に乗って漂っている。お茶を入れ。朝食を食べ終えた。客は、俺たち以外2人だけ だった。
駅前の空は、曇ったり晴れたりすっきりしない。次第に風も強くなってきた。着物の模様のような白い雲が青い空をかけて行く。『秋なんだなぁ〜』と思った。「さて、今日も走るか!」と牧人に伝えた。
スタート地点まで戻り、いつものように入念に準備体操した。体は予想外に重く、右ひざが痛む。
10時20分。体の節々をほぐして行く感じでゆっくりと歩を進めた。『走りずらい』体がアンバランスな感じ。そんな状態のまま10kmが過ぎた。
こんな時こそ、自分自身と向き合う時間なんだと、心を集中した。
20k地点を過ぎた頃だろうか?牧人が「今日は4時半には久慈市役所にゴール予定で走ってくださいね」と言う。頭で『少し休憩入れても�6分で走ればなんとかなるだろう』と計算した。
「なんで〜?」「今日市役所で、岩手日報とデーリー東北の取材があるんです」と言った。牧人は、俺が走っている間に、いろんな取材を公衆電話で取っていた。牧人もいろいろ大変である。『大丈夫』と目線でOKサインを送った。
しかし海岸線なのに上り下りの激しいコース。『そうかこのあたりはリアス式海岸だからか』と思った。走りに集中しても、右ひざや足首をこのコースは容赦なく刺激する。
上り坂は、歩幅を狭める。下り坂は、力を抜いてゆっくり走る。固定してある包帯は意外に痛みを和らげてくれているようだ。
久慈市に入った時、日程通り行けそうだと確信した。しかし、市役所の所在地がいまいちわからない。そこに一台の車が通りかかった。車を運転する若い兄さんに道を尋ねると、親切にも「俺が案内してやるよ」先導してくれた。
おかげで取材陣3人とカメラマンが待ち構える市役所に、予定通りゴールすることが出来た。久慈市長も直々に出迎えてくれていた。あまりに若い市長でびっくり。何と40歳と言う。この街の躍動が見える気がした。
しかし、いつもそうなのだが、カメラとか取材人がいると疲れも吹っ飛び、元気になるこの矛盾がやけにうらめしい。
久慈市役所ゴール
久慈市長と記念写真
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1985年9月10日(火) 野宿:久慈市役所駐車場 雲り
久慈市役所から普代村役場 29.8km 27,650歩
1.10:30(久慈市役所)→国道45号(14km地点 野田村)1時間14分16秒
2.14:30(野田村) →国道45号(29.8km地点 普代村)2時間38分00秒
曇り空は気分を憂うつにさせていた。
しかし、そんな思いも、ちょっとした変化に気づくと気合が入ってくる。今日は、やけに道行く人々の声援が多いのだ。すると車で追いかけてきた牧人が窓を開け、大きな声で「岩手日報に記事が出てますよ!」と嬉しそうに言って去って行った。
その後の街の中は、昨日とは打って変わった心のこもった、そして温かい声援が飛び交うのだ。
車から乗り出してピースマークをしてゆく自動車教習所の先生。クラクションを鳴らし続け笑顔で手を振ってくれるダンプの運転手。店から飛び出して拍手しながら「頑張れ」と叫んでくれたガソリンスタンドのおじさん達。
新聞と言うものの影響力の大きさに、改めて目を見張った。
だが裏腹に体調は良くなかった。
精神的には元気いっぱいだったが、右足のひざ、左足のかかとがちくちく痛かった。それに、左足の小指にマメが出来て、気分をより壊して行くのである。
急坂が見え始めた。景色はとてもいい。でもその風景を楽しめる余裕など、かけらもない。
3kmぐらい登っただろうか?
小学生がランドセルを背負って歩いていた。黒く日焼けした顔はいかにも健康そう。俺も日焼けしているが、俺以上かも・・・!
その子にパワーを貰うかのように、苦しまぎれに「こんにちわ」と声をかけた。驚きの顔が、不思議そうに俺の顔を覗き込む。そして笑った。
1km近く走っただろうか?背後に人の気配を感じ、振り返るとびっくり。その子がゼイゼイ言って追いかけてきている。速度をゆるめた。その子はランドセルるを左右に揺らしながら俺に追いついた。「君、早いね!」すると「お兄ちゃん、どこから走ってるの?」と聞く。「北海道からだよ」と答えると、さらに目を丸くし て「すごいな〜」と。
見るからに小学校2,3年生。それでもいっしょについて追いかけてくる。
峠近くになりカーブが見えた。後ろを振り向くと、歩くようにしながらまだ、追いかけてきていた。カーブ手前で「さよなら」と大きく手を振ると、小さく頬笑み、そして、「頑張れ」と言ってくれたような気がする。
あの子は何を思って俺を追いかけてきたのだろうか?と、ふと心をよぎるものがあった。
『普代村』と言う看板があり、普代村に入った事を確認する。しかし今度は上り坂より恐れている下り坂が待ち受けていた。
痛みがある。足を気遣って走るが、痛みを堪えることで精一杯である。そして、普代村役場1km手前でとうとう激痛に変わった。
今まで我慢し続けた糸がプツンと切れたような感じだった。
牧人にサインを送って車をストップさせた。包帯で右足首をがっちり固定した。それでも我慢に我慢を重ねて役場まで走り続けた。しかし、痛みは足首から頭の先まで一気に貫通するような激しさだった。
周囲の励みにここまで来る事が出来たが、これから先の事を考えると不安は次第に大きくなるばかりだった。
人生と言うか、時の流れと言うものは、すべてがうまくかみ合って転がっては行かない。喜びがあれば、それと背中合わせに、苦しさが待ち構えているようだ。
新聞記事と言う大きな得を糧に人々の声援を貰ったが、その喜びの一方で、肉体はもがき苦しんでいる。人生とは、えてしてこういう繰り返しなのであろう。
そんななりあいを感じた時、自分の人生、そして、立場をもっと認識して進めなければと思わずにいられなかった。
今日あの坂で出逢った小学生も、長い人生の上り坂で、いつか悩み苦しみ、何かをつかむ時があるだろう。
あの子は、今日の俺との出逢いを思い出してくれるだろうか?いや、そんなことはどうでもいい。それよりもあの少年なりに熱く燃えて、俺を追いかけてくれたことに感謝しよう。
久慈市役所 出発
なんだ坂、こんな坂
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1985年9月11日(水) 休み 野宿:普代村 浜辺キャンプ場 雨のち晴れ
朝から雨が降っている。足の状態は、少し楽になっている。しかし、完全休養にあてることにした。
朝食の為に寄った《レストハウス うしお》。
この《うしお》の窓から望む、陸中海岸の美しさが、手に取るように眺める事が出来た。左下には漁船が並び小さな港があり、岩と松が山の緑の中でクッキリと浮かびあがって美しいシルエットを描いている。
そんな景色を背に、朝食後、日記の整理とはがきを書きはじめていた。牧人はいつものように、洗濯や取材の申し込みなどに出かけて行った。気がつけば朝食から4時間以上もたっていた。しかし、食堂内で無心に原稿を書き続けていた。
その時、ここの娘さんだと思う。20歳前後の娘さんが、いやな顔をせず、気を遣ってお茶や、コーヒーといろいろサービスまでしてくれた。
「すみませんね」と言うと、ちょっとはにかんだ笑顔で「いいんです。ゆっくりしていってください」と。そのうちに冗談を交わすくらいまで仲良くなってしまった。すると「内緒、内緒!」と言いながらまたコーヒーをを差し入れてくれる。だからと言って、俺の事を特別意識している様子もなく、むしろさわやかな気持ち を感じるばかりである。
なぜか、この場所に居続けたい気持ちがよぎった時、牧人が帰って来た。「一応、接骨院探しましたので行きましょう」と。
丁重に挨拶したとき、「一枚レコードください。サインも・・・!」。心は、もう少し《うしお》に居たい気分であった。
午後1時を時計が回る頃、空は青空に変わり始めた。景色は一層雄大さを取り戻していた。足の治癒も終わり、とにかく今日はゆっくりしようと晴れ渡る普代村キャンプ場に引き返した。
東北の秋は早い。太陽の日差しも弱く、風が吹き始めるものなら、鳥肌が立つくらい寒い。それでも普代村キャンプ場の海を見ていたら、牧人と泳ぎたくなった。「泳いだ方が筋肉がほぐれていいかもな!」と勝手な判断をして海に飛び込んだ。
牧人はいつの間にか子供のような声をあげて波といつまでも戯れている。『そっか、牧人もいろいろ俺に気遣ってるから、こんなことででも羽を伸ばさせてやる事が、必要だな』と察した。
まぁ〜これが今年最後の海水浴になるだろう。
俺は、寒くて先に上がり、シャワー室に向かった。そしてシャワーを浴びた瞬間、大声をあげた。だって氷のように冷たい水だったのだ。最後まで冷たい水は、俺の体を硬直させ、風邪でも引きそうな気がするほど冷たかった。
夕方になると、普代村の日差しは、完全に遮られてしまった。車を置いた日陰は、体感温度は10月末のように下がって感じた。
夕食も兼ねて、明日のコースを下見しようと言うことになり車を走らせた。明日の日程《黒崎展望台》に向かったのだ。
黒崎展望台から眺める景色は、もう言葉では言い表す事が出来ないくらいである。
そんな展望台で沈みゆく夕陽を眺めていたら、ギターを引っ張り出し歌いたくなった。
あたかも映画の主人公にでもなったように・・・・。そして歌いだした。その横を何人かの人が通り過ぎて行く。が、誰も、立ち止まらず横目でそっと見て行くだけである。東北の人はシャイなのか、それとも俺の歌が気に入らないのであろうか?
しかし、そんな事どうでもいい。ただ、ここで歌いたいと思うのだから!
レストハウス うしお
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1985年9月12日(木) 野宿:普代村浜辺キャンプ場 曇りのち雨 時々晴れ
普代村役場から岩泉町小本まで 39.8km 40,350歩
1.10:15(普代村役場)→シーサイドライン(15km地点)1時間26分04秒
2.13:45(弁天崎)→シーサイドライン(28.6km地点 切午)2時間43分05秒
3.16:20(切午)→国道45号(39.8km地点)小本 3時間43分40秒
2日間世話になった普代村に別れを告げ、陸中シーサイドラインを行く。
海岸線は雲が厚く、寂しそうに声をかけられているような気がする。夏の海と違って、どこか哀愁に満ちているように見えるからなのだろうか?それとも、足の痛みや東京の家族の事を思う心配から、そう感じるのかもしれない。しかし、前に進むしかない。心に気合を入れた。
4kmほど行くと、かなりの上り坂に直面した。
上り始めると思った以上に大変な坂道で、それが山の間をくねるように続いているではないか!両足に痛みを感じているせいか精神的にも苦しい。いや、余計な事は考えないように集中しよう。
海から流れ込む潮風は冷たい。山に漂う大気もその寒気を帯び体をむしばむように震えあがらせる。
『楽しい事を考えよう』と思う。『どんなに苦しくても、この景色を楽しもう』と心を切り替えた。
道は上っては下り、そしてまた上る。海岸線かと思うと、いつの間にか緑の山が迫り、波がのたうつ海岸がまたやってくる。同じような景色には違いないが、コースの装いは微妙に違って少し楽しめるようになった。心で『なんだ坂♪〜こんな坂♪〜』とおまじないのようにつぶやいていた。
車は殆ど通らない。道の真ん中を堂々と走り続けた。すみっこを走るより真ん中を走る方が、圧迫感が少ない。その時、50mくらい先に大きな鳥がいた。「エツ!何?」。キジの雌だ。小さい頃、祖父と山で見たキジと同じだ。あれから何年が立つのだろう?祖父の事を考えると、家族の事を思い出す。『なんだ坂♪〜こん な坂♪〜』近づくとキジは草むらに飛んだ。ランニングシャツの汗が冷たい。大きく息をしたり、声を出したり、心を揺さぶる。苦しくて歩きたい。でも走る。『そうだ今の一歩が東京に近づく一歩なんだ』と。
この陸中海岸のコースを選んだ事に後悔はしていない。しかし、予想外の難関に戸惑いはある。
『田野畑村』に入ると、さらに急坂が広がった。呼吸は切るように3回吸いこみ、大きく「フーッ」と吐きだす方式で押し通していた。斜面がきつい場合はこうしたやり方が俺にはあっていた。苦しさが増すと地面を見据えて傾斜を目線から外した。しかし、行けども行けども頂上が見えない。『もう限界だ』と思ってから、 何回の限界を超えて行くのだろう?『限界とは、どこにあるのだろうか?』と考えながら、緑の中をひたすら上る。太陽がチラチラ顔をのぞかせ、心がかすかに弱気になった時、やっと頂上に出た。
なぜか、こんな事がとてもうれしい。これが一つの達成感だろう。
そこから3km走って国道45号に突入した。
一車線の狭い道路だが、とても美しい道だ。気分が変わる。さらに30分走った。小学校5年生の女の子達に迎えられた岩泉町小本に着いた。両足の痛みはあるものの、予定通りの日程で無事終わる事が出来た。牧人は「今日の距離は39.8kmです」と喜んだ。
両足を休めよう。この体を労わろう。子供達に「近くに御風呂屋さんある?」と真っ先に聞いていた。
普代村役場前
上りの激走1
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1985年9月13日(金) 野宿先:小本駅駐車場 晴れのち曇り
岩泉町小本から宮古市役所 33.4km 30,850歩
1.10:45(小本大橋)→国道45号(13.7km地点)1時間20分46秒
2.14:40(13.7km地点)→国道45号(33.4km宮古市役所)2時間59分58秒
車を「コンコン」とたたく音に目が覚めた。牧人は、起きていて何やら男と会話してるようだ。
眠い目をこすりながらあくびをして、外の会話に耳を傾けた。すると男が牧人に「新聞で見たよ・・・・!・・・・・記念にレコードを1枚くれるかね」と言っているようだ。
すると、牧人は車に戻ってきて、そして嬉しそうに、「タクシーの運転手さんが、レコードを買ってくれるそうです」と耳元で囁いた。「朝から縁起がいいな」と小さな声で答えると、牧人はニコリとしてレコードを持ちだし、また外に出て行った。
小本駅に日が差し始めたのは、出発1時間前だ。入念に体操をして、牧人のマッサージを受けていると、雲の切れ間から暖かい日差しが降り注いできた。
思い出せば、昨夜はかなりの雨が降った。あまりに冷え込みが厳しく寝袋にくるまり、体を曲げるようにして、寒さをしのいだのだ。タクシーの運転手さんに起こされる前は、10月下旬か11月初めといった感じで寝ていたから、この日差しは嬉しい。
太陽が顔を出せば、やはり体を暖かく包み込んでくれるから、右ひざも左ひざの心配も和らぐのである。とにかく、思ったよりも両足は悪くならずに済んでいるのが、ただただ嬉しい。
10:45走り始めた。
最初の5kmほどは、体のふしぶしが痛く、体が重いが、日程をこなしている心がそれを支える。今は、じっと我慢の時期だろう。
岩手県に入り国道45号線をたどり始めてから上り下りの坂道ばかり。我慢のしどころと心得てはいるが、それにしても上り下りが多すぎる。
ゆっくり走るが、今日は特に体のあちらこちらで筋肉痛が起きていた。北海道を走破した体に自信を持っていたが、やはり疲れと、この上り下りの激しさには、さすがに疲労を隠せない。
特に下り坂が怖い。ひざとお尻でブレークをかけて走るから、お尻から腿に負担がかかり無理な走法になっているのかもしれない。
しかし、おもしろいね。体はこんなに苦境に立たされているのに、精神的ボルテージは高まっているのである。
なぜ? って、朝のタクシーの運転手さんもそうなんだけど、たぶんあの岩手日報の記事が出て以来、道端や車からの声援がものすごく多く飛ぶようになり、本当に心が勇気づけられて、肉体より心が勝っているようなんです。
宮古に近づいた上り坂では、耕運機に乗ったおじさんが、わざわざ道端に止まり、拍手で送ってくれた。見も知らない人々が影に隠れ応援してくれる。俺が気付かずに居た人たちの激励も、秋風に乗って、そっと心を包んでくれているのだろう。
走らなければならぬ苦しみと、こうした喜びの中間点で心がゆらゆらとほほ笑んだ。
そして、この日も日程通り無事、宮古市役所のゴールに飛び込む事が出来た。
さて、今日は、ゴール後のレコード店まわりや市役所訪問、取材とスケジュールはいっぱいである。
午後4時半、今日も「岩手日報」の取材を市役所で待っていたが、約束の時間を過ぎても来ない。一時間ほど待っても新聞社の人は姿を見せなかった。「どうしたのでしょうかね?」。牧人は、珍しく苛立って見えた。
そんな時、市長室に呼ばれた。
宮古市長の印象は『男っぽい』って感じだ。そして、市長は俺たちを見るや大歓迎してくれた。列島縦断の話をしているうちに市長と話が、どんどん盛り上がって行く。この市長も若い頃、自転車で四国お遍路さんを15日間でまわった経歴の持ち主だった。だから、俺の挑戦を本当に理解してくれているのだった。
帰り際、握手をしてから、俺の肩をたたき「最後まで頑張ってくださいよ」と言って、日本最東端の証明書と記念品をくださった。
『男っぽい』という印象は当たっていた。男が男として惚れるタイプとは、こういう男の事のように思え元気を貰えた。
上り激走3
陸中海岸 激走4
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1985年9月14日(土) 野宿先:宮古市役所駐車場 晴れのち雨
宮古市役所から大槌町役場まで 43.9km走破 37,650歩
1.10:00(宮古市役所)→国道45号(15.2km地点 豊間根) 1時間14分37秒
2.12:00(豊間根)→国道45号(29.9km地点 山田町 織笠)2時間25分03秒
3.15:45(山田町 織笠)→国道45号(43.9km地点 大槌町役場前)3時間39分25秒
牧人が落ち込んでいる。
昨日(13日午後4時30分)取材の約束をした岩手日報の宮古市局の人はやはり来なかった。牧人は昨夜の夜、そして、今日も朝から何度も宮古市局に公衆電話から連絡を入れるのだが、ナシのつぶてだったようだ。
「まことさん、すみません連絡が取れなくて・・・・」と本当に元気がない。この縦断が始まってはじめて俺に見せる顔である。
「きっと何か大変な事が起きたのかもよ。大きな事故や事件でなければいいけど…」と途中で言葉を止めた。
牧人は、出発1時間前の9時にも念のために電話した。電話口に出た方に「古代は宮古市役所を10時に出発します」と伝えたらしい。すると電話口の向こうでは「必ず担当者に連絡しておきます」とのことだった。が、スタート地点にそれらしい人は誰も現れなかった。
牧人は、時間になると「出発しましょう」と静かに言った。とても残念だ。
約束したうえ、相手が時間を指定していて、すっぽかされたのだから牧人の落ち込みもよく分かる。もちろん取材してもらう側だから文句も言えぬが、ちょっと馬鹿にされた思いが膨らみ、ショックだった。結局、何の連絡も取れないまま出発した。
いやな事、悪い事は、重なるものである。
東京を出発するとき、『古い自転車だけど役にたつと思うから』と言って(東京の応援者:渡辺孝之さん)貸してくれた、牧人の愛用自転車が、市役所の駐車場で盗まれてしまったのだ。思い出せば、北海道のあの長い長い真っすぐな道を、汗びっしょりで水を持って走って来てくれた、あの自転車に乗る牧人が浮かんでくる 。走りながら振り返ると牧人に笑顔はなく、ゆっくりと俺の後ろに付き運転している。可哀そうでたまらない。
昨日、宮古市に着いて、市長に会えた時、あんなに感動して、尊敬して、いい気分になり、街の温かさを感じていただけに、ちょっとした些細なことでこんな気持ちになる事が残念至極である。
忘れよう。
『どんなにいい街にも、おバカさんは居るさ!』。走りながら車の牧人に『忘れな!!』とアイコンタクト。牧人もすぐにわかったらしく、やっとニコリとした。
走り始めると意外に調子がいい。もちろん両足の不安、体のけだるさなど感じるが、裏腹に足は前に前にと進む。気がつくと体全体がリズムに乗って来た。
空模様は、日差しがあるとはいえ、山陰に入ると、まだ9月と言うのに息が白くなるのには驚いた。汗で、ランニングシャツは濡れているのに、手足はすぐに乾いてしまう。皮膚は冷たくなっているが、無我夢中で動かす体は、心地よいほどだ。
大槌町の街並みが見えてきた。最後のトンネルを抜けた途端大きな声に変わった。「あぁぁああぁ〜」雲の切れ間から夕日が真正面に光をいっぱいに輝かせ現れた。その輝かしい光達が、濡れたアスファルトにも反射して、すべてが一つになり俺を包みこむ。何かとてつもないスポットライトを浴びたような、そんな気持ちが した。
『忘れよう、許そう』相手にもいろんな事情があるだろう。そして、これからももっともっといろんな事に遭遇するだろう。でも、今、思うこの心を忘れないようにしよう。
振り返れば、今日は休憩中に雨が降り、走りだすと雨がやみ、走行中の人や車の声援も多かった。そして、何より心も体も元気に走れ、予定の23kmを、なんと20kmも多い43.9kmも走破できた。
眩しいほどの夕陽に包まれ、牧人と目が合い『風呂探そう』とアイコンタクトした。
俺達の寝床。働く牧人
言葉もいらぬ、アイコンタクト
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1985年9月15日(日) 野宿先:大槌駅前 晴れのち曇り
大津市役場前から三陸町 40.5km走破 33,950歩 3時間15分38秒
1.10:45(大槌役場前)→国道45号(12km地点 釜石市役所)58分57秒
2.13:15(釜石市役所)→国道45号(25.2km地点 唐丹駅前)2時間03分15秒
3.16:00(唐丹駅前)→国道45号 (40.5km 三陸町)3時間15分38秒
空が晴れ渡り、気持ちいい秋の朝だ。両足も心配ないようだ。体調良好という事だろう。
スタート地点に10時頃訪れる。大槌役場横の阿部ガソリンスタンドのトイレを借りたことで従業員達と仲良くなり、立ち話をした。このままでは出発出来ないと思ったのか牧人がいろいろ気遣っている。
そろそろ行こうかと思った時間は、10時45分だった。時間がたつのは早い。重い腰をあげ、阿部ガソリンスタンドの人達に見送られてスタートした。
大槌町を抜ける間、家々からの拍手や声援が凄かった。走り始めに、こうだと気分屋の俺としては、調子に乗ってくるいい出足である。
町を出るといきなり急な上り坂と出くわした。しかし、もうこの陸中海岸では、上り下りを考えないことにしていた。調子もいい。
マイペースで上り、乱れないように下った。そう、景色に目をやる余裕さえある。車からの声援に、右手を振り上げて答えたり、「ありがとう」と声も出した。
釜石手前4kmのトンネルのところで、写真を撮るカメラマンに出会った。「こんにちわ」と声をかけると「岩手日報です」といった。後ろを振り向くと牧人が車で笑っていた。記者は俺の横を走りながら釜石支局だと言って「記事にならないかもしてませんが・・・!」とゼイゼイ息を吐きながら写真を撮っていた。
釜石を過ぎて唐丹駅で休みを取った。このところキャンペーンもないので、どうしても歌の練習不足になる。ちょっとした空き地でギターを取り出し30分くらい練習をしていると、自転車に乗って来た二人の男の子が目の前に現れた。しかし、歌っている鼻先を行ったり来たり。そのうち、車の中を覗いたり、横をわざわざ 通り、俺の気を引こうとしている様子。
「おい、こちに来なよ」と声をかけると、ニコニコして素直に近寄って来た。そして、また歌い続けると座り込みおとなしく聞いていた。
歌い終わった。すると、ふたりとも目を丸くして「カッセトテープが流れてるみたいだ」と背の高い方が言うと、もう一人が「プロ歌手か〜まんずうまいナ」と。嬉しいもんです。「プッ!」と笑ってしまった。
ちょっとのきっかけで話は弾んでいった。背の低い方が小学校6年生。背の高い兄貴格が中学2年だと言う。二人はいとこ同士で、よく遊んでいるそうだ。
よく見ると、中2の兄貴格の少年の眼の渕が黒くなっているので「お前、喧嘩しな?」と聞くと、喧嘩はしないとむくれた。事情を聞くと、中学でボクシングのクラブに入っていると言う。「強いのか?」と聞くと「・・・・」黙り込んだ。小6の子がクスクスわらった。
小6の少年の目は、ぱっちりとして、とても美少年だ。しかもいがぐり頭がよく似合い、この風景に溶け込んでか、とても素朴でいい。
気がつくと午後4時近くになっていた。「そろそろ出発だ」と言うと、ふたりが俺の顔を覗き込み「自転車でついて行っていいか?」と聞いた。「いいけど、トンネルが多いから危ないぞ」と言うと「大丈夫!ここのトンネルは慣れているから・・!」ときた。
「じゃ〜行くぞぉ!」。
上り坂を上り始めると、小6の子が「早いなぁ〜これだったらマラソンランナーになれるよ」。そしたら中2の兄貴が一生懸命小6に言い返しているのだが、岩手訛りが、俺にはさっぱり分からなかった。
峠を上ると、問題のトンネルが現れた。これから三陸町までトンネルがものすごく多いとふたりは言う。そして、しばらくするととてつもなく長いトンネルが待ち構えているらし。逆にふたりに心配された。そして、そのトンネルに入った。暗いトンネルの中で、中2の兄貴が「ペース崩れねなぁ〜」と感心している。すると 小6が今度はわけのわからない事を言っている。でも、いやな感じではない。すると、その背後からふたりが自転車のライトで、俺の足元を照らしてくれた。「サンキュー」と振り向くと、二人は黙って気遣いながら後ろから協力してくれる。
でも、車が来ると、さすがに怖いのだろう。ライトが左右に大きく乱れた。しかし、車が通過すると、また同じようにライトで照らしてくれる。『なんてやさしい少年たちだろうか!』。
トンネルを無事抜け、下り坂を走って10kmほど来たところでふたりを返すことにした。もう5時近くになっていたからだ。自販機でジュースを買い牧人も入れて4人で乾杯した。ふたりは静かだった。
「さよなら、元気でな!」と言って出発した。後ろ髪を引かれるように振り向くとふたりは手を振っていた。そして、精一杯の声を出して「がんばれー」「東京に遊びにいぐがら〜」と声が届いた。
夕暮れの、今にも雨が降り出しそうな山の谷間に、ふたりの元気のいい声がこだました。
『あいつら、遊びに来るって言ってたが、住所も何も知らないのに・・!』でも、またどこかで会えたらいいね!。
三陸の上りは続く
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1985年9月16日(月) 野宿先:三陸町浪浜 雨のち曇り
三陸町から陸前高田市まで 31.2km走破 25.600歩 2時間30分24秒
1.11:10(三陸町)→難関急坂 国道45号(10.3km地点)50分32秒
2.13:40(10.3km地点)→国道45号(22.6km地点 丸森)1時間49分44秒
3.15:30(丸森)→国道45号(31.2km地点 陸前高田)2時間30分24秒
浜辺に雨が落ちている。繰り返す波がすすり泣くような、誰もいない海。『♪今はもう秋〜誰もいない海〜♪』フッと口ずさんでみる。三陸町浪浜海岸は入江である。こんな日は朝からセンチになってしまう。
見あげる空から小粒な雨が落ち、秋空は厚い雲に隠れ、海に浮かぶ山々は霧にかすんでいる。心は、やはり東京の家族を思い出す。
『うんん〜寒いなぁ』。車の中にいても、肌寒い潮風が心まで吹き抜けるようだ。車のエンジンをかけ、クーラーからヒーターに切り替えた。あたたまった車の中で、久しぶりにパンとハムの朝食を牧人とゆっくり取った。しかし、なぜか二人とも無口である。やっぱりこの冷たい雨のせいかな?
日記を付けながら、体の調子を感じてみる。けだるさが体を重くしているようだ。この何日か調子がいいと調子に乗り、知らず知らず無理をしていたから・・・!。その結果、日程は1日浮かしたが、その分のつけがたまったようだ。体を動かすふしぶしが痛みを覚えていた。
牧人はそれを察していた。「今日はゆっくりスタートしましょう。雨も心配ですし、1日浮いてますからね」という。その言葉にうなずいて、のんびりと車の中で過ごし、午前11時に陸前高田に向かうことにした。
実は今日、ゴール後、心に一つの楽しみを待ちわびているものがある。だから、雨でも、体が重くても気合が入った。
しかし、気合を入れた心を、打ち破るような急勾配が、スタート直後から始まった。そう、難所中の難所のようだ。この陸中海岸にはどれだけ、いじめられた事だろう?しかし、目の前に見える坂は。今まで走った事のない急斜面の坂が待ち受けていた。
雨は降り続き、体の体温を奪い去って行く。次第に心もどんどん冷え込んでくる。それでも大きく両腕を激しく前後に振り、前を見据える。しかし、雨に濡れた足元がグジュグジュし始めると、両足のふくらはぎもパンパンに張りだした。呼吸をどんなに工夫しても乱れ苦しくなるばかりである。もがいて、もがいている自分 がそこにいた。
『もう駄目だ』と何回も思う。一方で「負けるもんか」と声に出す。長い長い急勾配と闘って行く。その距離はたった5kmほどと理解しているはずなのに、それ以上に思えてならない。そのとき、頂上らしき風景が見えてきた。よく見ると、先に行っていた牧人が両手を振って「ラスト、ラスト」と大声をあげている。しかし、 力尽きている俺の足取りは、まるで秋風になびくススキのように、頼りなくゆらゆらと左右に揺れている。
最後の力を振り絞り、頂上の三陸トンネル前に着いた。しかし、安堵するのではなく、これからまだ続く恐怖の始まりを意味するトンネルが立ちはだかっていた
。
そう、北海道から何度も味わってきたトンネルの恐怖がよみがえった瞬間であった。
牧人は「まことさん、このまま頑張りましょう!!」と軽く言い残し、無情にも車は、トンネルの中に消えてゆく。『馬鹿野郎〜少し休ませろ』。
目の前の三陸トンネルは、歩道などという代物はなく、ただただ狭く薄暗い筒のようなトンネルであった。
休むに休めず、トンネルに突入した。後ろを見て、車の来ないのを確認してから左車線の真ん中に出た。はるか遠くのちっぽけな明かりだけが頼りである。後ろから「ゴォ〜」と車の音がするや、すぐさま壁にへばりつき左手で壁を触りながら進む。
その時、大型トラックの轟音がトンネル中に鳴り響く『怖い』。そのうちその轟音が本当に俺に近づき、走ってる横にピタリと並走した。そこでわざわざエンジンを切って、それからまたエンジンをかけた。真っ黒い排気ガスをまともにかぶった事を感じる。なぜか悔しさで怒りよりも、泣けてくる。何と意地の悪い奴なんだ ろう!
それからは、恐怖が付きまとい、車の音がするとまともに走れなくなった。しかも、上り坂で使い果たしている体は、ふらふらと揺れる。けれどトンネルを出たいと思う一心で、ありったけのエネルギーを振り絞って足を前後に動かした。悔しくて、もどかしくて、涙があふれてくる。それにしてもこんな狭いトンネルを次々 と車がスピードをあげて追い越して行く。
小さな光が、ゆっくりでも近づいてくる。一歩一歩かみしめて前を行く。そしてついに雨に煙る緑を見たときの安ど感といったらなかった。しかし、それも一瞬。今度はどこまでも急な下り坂が待っていた。
『俺は何故、こんな事をしているのだろう?』その答えは、もうとっくに出たはずなのに、しかし、また心を悩ませる。『苦しい』、『情けない』、『悔しい』、『やめたい』。
頭の中をグルグル言葉が回る頃、大船渡市を抜け、ついに陸前高田市に入った。
その時、陸前高田市の入口に傘をさして佇む男が見えた。「おぉぉぉぉ〜!」とすぐさま両手を振った。朝から楽しみにしていた再会が今起こる。するとなぜか、大粒の涙があふれてきた。向こうも俺を見つけ、傘をあげて名前を呼んでいる。そこには十年来の親友 大友康弘が待ち受けていてくれた。
秋風に吹かれて進む
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1985年9月17日(火) 休養日
陸前高田市 親友:大友康弘宅
久しぶりにふわふわの布団で目が覚めた。やっぱり畳の上は疲れが取れます。
ここは、陸前高田市の親友 大友康弘宅である。
大友さんとの出逢いは、俺が20歳頃、新宿で歌っていたパブで知り合い、気があって友達になった。それから大友さんはこの陸前高田に帰って来ても、たまに東京に来て、俺の家に泊まったりしていたので、交流は、10年以上続いていた。
大友家の2階でのんびりしていると、下から元気な子供達の声が聞こえてくる。『もう大友さんは、仕事してるんどろうなぁ〜』と思いながらも、布団から出る気がしない。
さて、そろそろ起きよう。そして、久しぶりの休養日を楽しもうと思っていた。
すると、先に起きていた牧人が2階に上がって来た。「起きましたか?」「オー起きてるよ」「朝ご飯御馳走になりましょう。美味しい納豆を食べさせてくれると言ってますよ」「よし、起きよう」と布団から飛び起きた。すると、牧人が静かな口調で「朝食食べ終わったら、縦断の報告原稿の整理を今日中にお願いしますね 。事務所からうるさく言われていますから」という。「あぁ〜・・・・・!」いきなり元気がなくなり、布団の上に倒れた。
外は快晴と言うのに、一日中、机の前に座るはめになってしまった。あまりに残酷すぎる。『これじゃ〜休養にならないじゃん』
眩しいほどの日差しが差し込む大友家の二階で原稿を書き始めた。はじめはイヤイヤ書いていたが、書き出してしまうと、これはこれで楽しくなる。
一日一日、一歩一歩を刻んだあの日、あの時の道程や風景が浮かび、流れて行く。
文字にしなかった事なども頭をかすめ、ひとりで苦笑いしたり、絶対、牧人には言えない事を思い出し、またそれを頭の中で楽しんで、大切に心に閉じ込めてしまう。
あるよね。こんなこと!なんてい思いながら思い出を繰り返し楽しんでいた。
フッと時計に目をやるとなんと午後3時を過ぎていた。
出来あがった原稿を牧人に手渡し、横になって眼を閉じた。いつのまにか寝ていた。
遠くで誰かが俺の名前を呼んでいる。『うるさいなぁ〜』と気がつくと、大友さんが俺を起こしていた。夕食が出来てると笑顔で言った。なんと2時間も寝込んでしまったようだ。やっぱり体は疲れてるんだなと思った。
下に降りて行くと、テーブルの上には、刺身、エビや魚のフライ・・・・ものすごい御馳走が並んでいる。お母さんも、奥さんも本当に親切に迎えてくれている。「さすが三陸海岸の海の幸は違いますね」と言いながら、牧人とふたり無言で、腹いっぱい御馳走になった。
夕食が終わると、大友さんが「さぁ〜行こう」という。「どこに?」と聞くと「街を案内するよ」という。喜んで行った場所は、なんと小料理屋「田舎」という店だった。「もう食べれないよ」というのに、出てきた刺身は《さんまの刺身》。さんまは焼き魚でしか食べた事がなかったから、びっくりした。本当に新鮮でうま い。お腹がいっぱいのはずがビールとともにいくらでもお腹に入る。気がつきゃ、久しぶりにベロベロになっていた。
久しぶりの休日。どうか許してください。ただただ大友さんに感謝です。
*お世話になった大友康弘さんは数年前他界いたしました。
心からあの日(1985年9月17日)の夜を思い出し、あらためて感謝し、心から
ご冥福をお祈り申し上げます。 黙祷。
俺とマネジャー牧人
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1985年9月18日(水) 宿泊:陸前高田 大友康弘宅
陸前高田 沼田から室根村 雨
32.8km走破 27,600歩 2時間42分55秒 総合距離1,090km走破
1.10:55(沼田)→(10km地点)53分38秒
2.12:55(10km地点)→(23km地点)気仙沼市役所 1時間56分38秒
3.16:00(23km地点)→(32.8km地点)室根村 2時間42分55秒
秋雨前線真っ盛りとでも言う感じで朝から雨が降っている。と言ってもザーザー降っているわけではない。霧雨って言うのだろうか。
2日間、大友家に大変お世話になってしまった。あまりに至れり尽くせりなうえ、みんなが優しいから、逆に心が腐ってしまったようだ。走りたくないし、ここから離れたくない。しかし、そうもいかない。無言で帰り支度をするが、心にも霧雨が降っている。
大友さんも、口数か少ない。『いかん、いかん』と思い、明るく「あれ〜二日酔いなのかな!」と声をかけた。すると、中途半端な笑顔で首を振った。『たぶん、大友さんも俺と同じ気持ちなんだろう』と思った。
10時を過ぎる頃、大友家を出発した。大友家で働くおばさんや家族の人がそろって見送ってくれた。「古代さん、ご無事を祈ってますよ」と言われた時、たまらなく寂しさを感じた。無理やりの笑顔で「じゃ〜行ってきま〜す」とふざけて見せた。
10:55雨の中を走りだす。祭りの後の何とやら・・・!気分は最悪。足も心も重すぎる。やっぱり人に優しくされると、心は軟弱になるようだ。
4kmほど進んだ。ぼんやり人影を見つけた。『エッ!』。
駐車場に見慣れた軽自動車が止まり、その横で雨に濡れた大友さんが立っていた。「・・・・・!」こちらをじっと見つめている大友さん。心を鬼にした。左手をあげて挨拶した。通り過ぎた。後ろで「頑張れよ!」。重い声が背中をたたいた。
振り向くと、牧人が大きな声で「お世話になりました。ありがとうございました」と何度も何度も頭を下げていた。
前を見る。両腕を前、後ろに大きく降り、スピードをあげた。
恋人と別れるわけでもないのに・・・・!でも、むちゃくちゃ寂しい。たった二日間の楽しい思い出が、逆にこんなにも心が揺れ動くものだろうか?
上り下りの激しい国道45号線をひたすら行く。
車が雨水をびしゃびしゃに体にかけていく。『ヘッ、もう慣れたもんだよ』。受身もうまくなった自分に思わず苦笑い。しかし、びしょぬれの体は、徐々に寒さを感じ始め震えが来ていた。靴の中には、水が入っているので、マメも出来たようだ。ちょうどそのころ気仙沼市役所に着いた。
気仙沼市役所では、読売新聞、河北新報社の取材を受けた。
これから、予定では室根村まで向かう。治療した足のマメを気遣い、シューズを変えた。ウエアーもすべて変えたが、一瞬のうちに雨に濡れ、Tシャツに肌が浮かんでいる。本当に寒くなってきていた。必死で走っているにもかかわらず、体が冷えて腹痛を起こしだした。牧人にサインを送り、5kmほど手前で今日のゴールと した。
車に入って着替えても、なかなか震えが治まらない。車の助手席で体を丸め、ヒーターを強くした。『風邪引かなければいいのだけれど…!』。
そう言えば、大友さんも、びしょ濡れだったよな。「風邪引かなきゃいいけど・・!」。
秋雨前線の中
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1985年9月19日(木) 野宿:気仙沼駅前 雨
室根村から一ノ関南光病院前まで
39.7km走破 32,500歩 3時間12分10秒 総合距離1130km 走破
1.10:50(室根村)→国道284号(15.3km地点)1時間11分28秒
2.14:30(千マヤ町)→国道284号(32.9km地点)2時間37分00秒
3.17:00(32.9km地点)→国道284号(39.7km地点)南光病院前3時間12分10秒
北海道を走ったあの暑い夏、雨が恋しくて仕方がなかった。少しでも降れば走りやすいのにと、うらめしかった日が逆に恋しい。『人間って、本当に勝手だね』。
気仙沼駅は今日も雨だった。
後ろにそびえる山には霧がかかっている。そんなに寒くはないが、憂つである。
岩手県に入って気持ちが晴れ晴れするような快晴の日は数えるぐらいしかない。今日野宿した気仙沼は宮城県だが、スタートする室根村はまだ岩手県なのである。昨夜は室根村のゴールがあまりに山の中であったため、気仙沼駅まで戻って来て野宿していた。
車の中で、日記をつけていると、国鉄のおじさんらしい二人ずれがトコトコと近づいて来た。『まずい!車の駐車場所が行けないのかもしれない』と思った。それでも平静を装い、ニコニコすると、向こうもニコニコした。
車の窓を開けると、「昨日、市役所に行ったの?」と尋ねてくる。躊躇せずに「はい」と言いながら怪訝な顔をすると、読売新聞東北版を差し出した。『あっ、これか!』。
別の一人が「大変なキャンペーンだね。本当に沖縄まで行くのかい?」と聞く。何となく心が落ち着き「本当ですよ。沖縄のゴールは12月1日を予定してるんですよ。」と答えた。ふたりは目を丸くして「本当にすごいね。歌も歌って行くんだろ?」と聞く。おじさん達は、時間を忘れ雑談はなかなか終わらない。心の中で『 この二人、仕事、大丈夫なのかな?」と思うほどだ。しかし、ふたりは親切に「キャンペーンするなら、一ノ関に○○○のところがある」とか「途中のドライブイン○○は、よく人が集まるよ」などと一生懸命教えてくれた。
牧人は真面目な顔をして、それを全部、ノートにメモって、丁重に御礼を言って車を走らせた。少し移動して8時半過ぎ、駅前食堂で朝食を済ませてから、10時半前に出発地点に戻った。
車の中で、いつもと同じように牧人の入念なマッサージを受け、出発だ。
走りだす。本当に走りだした直後はいつも心身共に闘いがある。今日は雨の降りしきる中、どうしても体中の関節が痛み走りづらい。それでも騙し騙し15km地点まで走り、昼食休憩をとった。
小さな蕎麦屋でうどん弁当を食べていた時である。入口がスーと開いた。何気に気になりその方向を見た。声が出なかった。たぶん、うどんを口に入れたまま、俺は固まっていたと思う。陸前高田で別れた大友さんが入って来たのだった。
「どうしたの?」と予想外の驚きと、嬉しさで、声はうわずった。
「いや、近くをまことが走ってると思うと、どうしても、居ても立ってもいられなくなってね」と。「追いかけてきたらこの駐車場で車を見つけてね」と言う。そして、中途半端な笑顔で「リンゴ、まことが好きだと思いだして持って来たんだよ」。リンゴ30個、スポーツドリンク20本、栄養ドリンク10本をテーブルの横で広 げた。
《独り言》「俺が、近くを走っていると言うけど、陸前高田からすでに50kmは来ていると思うよ。なのにあなたは、そこまでして、俺に差し入れしてくれる理由を考え、追いかけて来てくれたんだね。大友さん、ありがとう。本当に楽しく過ごした後は、出かけて行く我々よりも、残った大友さんの方が、よっぽど寂しさを 感じていたんだね。そして心配もしてくれてたんだね。この友情は決して忘れないよ」。
短い時間の間にも「体だけは気をつけてな」と何度も何度も繰り返し言う。14時半、「じゃ〜帰るよ」と雨の中、心配そうな顔を車からのぞかせ、陸前高田に戻っていた。
外に出て、消え行く、軽自動車に向かって深く頭を下げた。『たぶん今日は仕事、一日休んだね』本当に心で心配してくれる優しさが芯まで伝わって来ていた。「ありがとう、我が友よ」。
雨は降り続いていた。しかし、人の優しさ、暖かさを感じながら走っていたら32.9km地点まで着いていた。牧人が「体、温めましょう」と車から降り、俺を止めた。
体は冷え切っていた。ウインドブレーカーを脱ぎ、その下のTシャツを脱いでタオルで体をふいていると、道の反対車線で大型トラックが止まった。タオルでふいている体から湯気が上がっている。両方を交互に見たとき、トラックの運転手が「いい体してるなぁ〜」と話しかけて来た。「ありがとうございます」と。すると 「雨の中、大変だね」と言い「新聞で見たよ、兄さんのレコードは持ち歩いているのかい?」と尋ねて来た。「もちろんです」と言うと「じゃ〜一枚、俺に売ってもらえるかい?」間髪入れず「ありがとうございます」とテンションは上がった。そして牧人が差し出すレコードにマジックでサインを書き始めた。ところが、そのおじ さん「兄さん、サインは後でいいよ・・・・!早く何か着替えなよ」と気遣ってくれた。
道の反対同士、車と車の間を、別の車が通り抜けて行く。都会では絶対あり得ない情景だろう。しかし、一瞬の暖かな触れ合いを楽しんでいた。
なぜか、心は元気を取り戻していた。よし、残り気合入れて走ろう。
一関に向かって
9月19日のゴール
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1985年9月20日(金) 野宿先:一関駅横駐車場 雨のち曇り 体重54kg
一関南光病院前から築館町中学校入り口前
32km走破 25.200歩 2時間26分17秒 総合距離 1161.5km走破中
1.11:30(一関)→284号から国道4号線(14.9km地点)金成町1時間07分36秒
2.15:00(金成町)→国道4号(27.8km地点)築館町 2時間06分17秒
3.16:30(築館町)→(32km地点)築館中学校入り口前 2時間26分17秒
もう4日間連続で雨が降っている。さすがに気分は重くなるよね。体調も相当悪い。
走りながらどうしても冷たい水を飲みすぎるので、胃炎を起こしているし、足の指は連日の雨でマメがいくつもつぶれて、ものすごく無理はフォームで走っている。そのせいか、隅々の筋肉や関節の痛みさえ引き起こしているのだ。
どれもが苦痛になり始めている。気がついたら出発してもう5週間。時の経つのは早いよね。その分、体が変調を起してもしかたないか!?
午前8時半、雨の中を一関市役所に向かう。夜のキャンペーンも大事だけれど、役所にまわり、挨拶をすると新聞社やその地区の地方紙も紹介してくれるから、俺にとって、とても重要な事であった。
市役所に着くと、市長さんは出張中で、助役さんと会う事が出来た。綺麗な女性(秘書さんかな?)に助役応接室に通された。かなり豪華な部屋である。と言う事は市長応接室はもっと豪華なのだろうか?と隅々を見渡している。窓に雨のしずくが流れ、一関市街は霧に包まれかすんでいる。それはそれでいい風景だなぁ〜と 見とれていると、にこやかに助役さんが現れた。
「君が古代君ですか?」と握手。手を差し出しながら「あっ、ハイ」。「やあ、頑張っていますね。新聞で読みましたよ。若いって素晴らしい。そうだ、今度の日曜日には一関ハーフマラソンがあるんですよ」「・・・・はい」「いかがかな!出てみませんか?」「・・・はい、ありがたいのですが、日程的に無理だと思いま す」と言うと「あぁぁ、そうだ、そうだね」と笑った。しかし、人の良さそうな助役さんは俺の縦断に関する話をいろいろ質問して、笑い、うなずき、凄いとたたえてくれた。気がつけば15分の約束が40分も時間が過ぎていた。「初心貫徹だよ」とかたい握手で部屋を後にした。
今日は十和田市を過ぎると国道284号から国道4号線に入る。きっと車の数が多いだろう。急いでトレーニングパンツに着替え体操をして出発した。
全神経を集中して、体の隅々まで気遣いながら走るや、思った以上に体が反応して走れる。10kmを過ぎた頃には、朝のけだるさはどこかに隠れ、快調に走っていた。
『人間の体って本当に凄いや!』とスピードをあげた。
一関助役さん
9月20日築館町ゴール地点
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1985年9月21日(土) 野宿先:築館公立病院駐車場 晴れ 体重56kg
築館町中学校前から大衡村吹付まで
34.8km走破 28.900歩 2時間49分40秒 総合距離 1196.3km走破中
1.11:00(築館中学校前)→国道4号(21.3km地点)古川市 1時間39分06秒
2.15:25(古川市)→(34.8km地点)大衡村吹付 2時間49分40秒
「河北新報見たよ」と声掛けられた。
今日の出発予定地、築館中学校前のおばさんだった。昨日ゴールした時、飲み物を買った店のおじさんとおばさんが、店の前を掃除しながら出てきていた。
雲は多いが、久しぶりに晴れていた。天気が晴れるだけでこんなにも気持ちがいいものだろうか!
「お兄さん、お茶飲んで行かないか?」「いいんですか!」「おしんこもあるから…!美味いよぉー」と歓迎してくれる。お言葉に甘えて「じゃ〜御馳走になります」。
実は、昨夜、牧人から現金が心細くなったと聞かされていた。理由は、このあたりは地方銀行しかなく、我々が持っているカードでは、現金がおろせないので、残りわずかしかないと言った。だから朝一、仙台まで行ってお金をおろしてくるとのことだった。『牧人も牧人なりに苦労しているようだ』。
牧人が4号線を戻って来る事を考えたら、3時間はかかるかも!ならば、ここで少しゆっくりしても大丈夫だろうと、どっかり腰を据えてしまった。
おばさんもおじさんも本当に感じがいい。話が弾みそうなので、一応ペプシコーラを注文する。が、先にお茶が出てきた。次にナス、大根、人参,白菜、見知らぬ野菜のおしんこがオンパレード。それが本当にうまい。飲みながら、食べながらもおばさんの話は楽しかった。(ペプシコーラはずっと後に出た)
「この店はね、20年前に出してね・・・!」「その頃は裏口が、国道だったのよ」「車や自転車の旅人がよく出入りしてね、そんな人たちといろいろ話をしていると、人生の勉強にもなったけど、騙されたこともあれば、励まされたこともある。」と話は止まらない。しかし、このおばさんとおじさんの生きて来た姿が、手に 取るように見えて来るからおもしろい。、笑ったり、真面目にうなずいたり、鳥肌が立ったり、思わず「そうだよね・・!」と相槌を打つ。すると、またしゃべりながらも、お茶を差し替えてくれる。
気がつけば2時間も立っていた。時計は11時前になっていた。
「おばさんそろそろ出発するね」と言うと、名残惜しそうに俺を見つめた。そして、ゆっくりと「人生一度、何かを見極めたら、ただ一生懸命それに向かって行きなさいよ。何かをつかんだら、自分の力で血として、肉にしなさい」と目を輝かせて俺に居た。
ジーンときていた。お袋とダブっていた。
「いつかまた来るよ」と言っていた。『いや、たぶん一生のお別れだろう』。
おばさんは、涙ぐみながら「あんたの成功を心から祈るからね」と言った。
「サヨナラ」と手を大きくふって走りはじめた。後ろを振り返ると、ふたりはにっこりと佇んでいた。
子供さんが3人居るようだが、3人とも独立していると言うから、もう60歳近いだろう。いやそれ以上かも。今は、おじさんとふたりだけの生活をしていると言った。『どうか、お二人の人生が平凡でも、人々が立ち寄る暖かな人生でありますように!本当にありがとう」。
走りながら、東京の両親や家族の事をいろいろ考え走っていると、牧人の運転する車が遠く見えてきた。ちょうどガソリンスタンドがあったので、牧人に大きく合図して、ガソリンスタンドでトイレを借りた。すると、ここでもお茶とお菓子を振る舞ってくれ、気がついたら話が盛り上がってしまった。さて、今日は、どこま で走れるのでしょう?『まぁ!たまにはいいか!』
築館町中学校前のおばちゃん
とあるガソリンスタンド
9月20日大衡村吹付ゴール
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1985年9月22日(日) 野宿先:古川市駅前空き地 雨
大衡村吹付 から仙台まで
30.8km走破 24.400歩 2時間22分53秒 総合距離1227.1km走破中
1.11:00(大衡村吹付)→国道4号(16.6km地点)冨谷町 1時間16分46秒
2.14:30(冨谷町)→国道4号(30.8km地点)仙台 2時間22軍53秒
何かが狂い始めている。気持ちが悪く、三半規管が異常をきたしてる。『貧血だ』。
いや胃も猛然と悪化している。ひざや足首はさほど気にならなくなったのに、走っていると胃があつくなり、生唾が出る。『食べ物のバランスが良くないのかも…?』
今日もまた雨が降っている。
秋の長雨と言うが、本当に今年は雨の日が長い。梅雨時より秋雨の方が雨量が多いと言われる通り、量もしっかりある。日焼けした肌が徐々に冷め始めている気がする。
今日は仙台で久々にステージに立つ。体調を考え走っている。
「ピチャ、ピチャ」とシューズと路面が合わさった音と、横を通り抜ける車の騒音が心をイライラさせる。雨に濡れたシャツが胃のあたりを冷やしている。胃の痛みを感じながらも前に進む。今度は、頭が締め付けられる感じで、背中が張って気持ちが悪い。このところの雨で、体調には気を付けてはいるものの、なすすべも ない。
仙台に入った事を確認したところで、牧人に「Stop」のサインを出した。何とか日程通り帳尻をつけていると言った感じだ。冷えた体を車の中で温め、すぐに風呂屋を探し歩いた。しかし、なかなか見つからない。体の調子と今日のステージの緊張感で、心がまた、イライラしている!
午後7時頃、仙台市内のリッチホテルの地下「スコッチバンク」に到着した。ここが今日の出演場所である。
楽屋に入り、髪をセットしていくが伸びすぎてなかなかうまくいかない。それでも、いつもよりたっぷり時間をかけてセットし、心を落ち着かせるように集中しながら、気分を仕事モードに切り替えて行く。衣装に着替えると心が高なっていくのを感じた。
午後7時40分ステージに上がった。お客さんはほぼ満席。なかなか格調高い感じである会場だ。静かな気持ちで音を出し始めた。しかし、ギター1本の弾き語りは難しい。ゆっくり、冷静にオリジナルを2曲続けて歌った。
拍手は一応に多いが、しらけたムードが漂っている感じがする。『やりにくい』。そりゃそうだよね、俺のと知っている人が、ここに何人いるのだろうか?しかし、そんなこと言っていられない。『どうしよう?やっぱり、つかみはお客が知ってる曲をやるのが一番だろう!』と。
会場に話しかけながら、リクエストをとってみた。でも、何でも出来る訳ではないのだから、ちょっとこれはバクチである。するとすかさず、俺と同じくらいの青年が「酒と涙と男と女」と大きな声で言ったくれた。『しめた!』得意中の得意である。
一呼吸置いて「では、リクエストにお答えして、《東京だよ、おっかさん》」と言ったら大爆笑。「お兄さん、ちがう違う」とその青年が乗ってくる。こうなればこちのもの!場内は盛り上がって行く。そして《酒と涙と男と女》を歌い、終わった。・・・・大拍手。そこから一気にオリジナルで攻める《限りない愛の地へ》 《黄昏のWanderer》を・・・!手拍子が起こり、身を乗り出すように聴いてくれるあの青年。立ち上がった2人の男性客。逆に盛り上げてくれる隅の席にいる5〜6人の男女グループ。そして、正面のアベックまでも熱い視線でこちらを見ている。
ギターに魂をつぎ込んでいく、歌がいつもより伸びて行く。体が宙に浮くようにリズムを刻んで行った。・・・・そして、終わった。
拍手が大きくなってやんだ時、ステージを降りた。
そして、アンコール。心の中で安堵する。すぐさまステージに上がり、キャンペーン曲「抱きしめて」のイントロをギターで弾きだすと、場内はシーンとなった。歌手冥利に尽きるひと時である。
楽屋に戻り、ビールを一杯飲みほした。「うまい」。そして『上手く行った』。
ステージを降りるとき、たくさんの人達が「全国縦断がんばれ〜」とか「ヒットすること祈ってるよ」とか、たくさんの声援を貰った事を思い出しながら、2杯めのビールを注文した。
外に出た。あんなに声援を貰って、楽しかったはずが、夜の街に出て雨の中を歩いていると、なぜだか虚しい。一本の煙草に火をつけて、青い煙をほーっと吐きだした。煙に包まれた仙台の街のネオンがなぜか滲んで見えた。『・・・・なぜだか、寂しい』
仙台ゴール1
仙台ゴール2
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1985年9月23日(月) 野宿先:仙台若竹のパチンコや駐車場 雨のち曇り
仙台から岩沼市
26.4km走破 22.150歩 体重55.5kg 2時間07分37秒 総合距離1253.5km走破中
1.13:15(仙台)→国道4号(16.8km地点)名取市 1時間20分26秒
2.15:30(名取市)→国道4号(26.4km地点)岩沼市 2時間07分37秒
『何故走り続けているのだろう?』今日も朝から雨が降っている。
内臓も筋肉も関節も骨も、みんな悲鳴をあげている。走る事が苦痛に感じている。
牧人の「頑張りましょう」の声に縦断始まって以来、反発した。ちょっとした険悪ムードになる。「ごめん、本当に今日はしんどいんだよ」と。
心身ともに疲れていた。車の窓ガラスに打ちつける雨が、心の中までもずぶ濡れにしていた。
それでも気を取り直して、今日のスタート地点に車を移動するが、体が動かず、じっとしている。牧人も何も言わず、俺の行動を待ち続けているようだ。
国道4号線の車の数がおびただしい。この線の市内の道路は、最高6車線もある。その道路を車は、高速で走りぬけている。ぼんやりそんな国道を眺めながら、何か口に入れようとしても食欲は全くなかった。水をゆっくり飲み、心の中で葛藤していた。『日程から行ったら今日は最低30kmは走破しなければならない』と。
こまわりの顔が浮かんだ。家族の顔、北海道天塩のおばちゃん、牛乳をくれた北島さん、50km先まで応援に来てくれた大友さん、お茶を御馳走してくれたおばちゃんなどの顔が次々と浮かんで、そして消えた。
そんな時、雨はやんだ。暗くて重そうな雲が心にのしかかっている。でも、外に出た。午後1時15分走り始めた。
体は重く、足取りも重い。それでも12kmほど進んだ時、またも苦しみが襲う。右ひざが痛み始めた。たまたま後ろを走行していた牧人にサインを送り、ひざの応急処置をする。痛む右ひざを中心に塗り薬をつけ、包帯でがっちり固定してもらった。
なんとなく痛みが和らいだように思えた。
とにかく前に進もう。しかし5kも行かないうちに足は激痛に変わっていた。包帯をさらに先程よりも多めに巻く。牧人は「1時間休憩してください」と言う。黙ってうなずく。
道路沿いに置いてある花束が目についた。きっと交通事故で亡くなられた人に捧げられたものだろう。両手を合わせ「どうか、俺を守ってください」とつぶやいた。
気温はさらに低くなって、今にもまた雨が降り出しそうな気配である。『雨が降りだしたら、もっと苦しくなるだろう』と考えていた。『とにかく行けるとこまで行こう』明日は休養日にあてられてる事を思い出していた。
15:30ラン再スタート。走るしかない。だが、人から見れば、誰も俺が走ってるとは思わないだろう。あまりに低速すぎるから。汗は乾き、寒さを覚え、苦しさと震えが心を襲う。胃から生唾が出る、足の痛みは、増すばかり。やはりこれ以上走行は危険だと思い、牧人に『ここまで・・・』と伝えようと、周りを見渡し た。が、どこにも見渡らない。『なんで、こんなときに居ないんだよ、調子が悪いこと知ってるだろうに・・!』と腹が立ってくる。さらに見渡し探すが、どこにも姿はなかった。「バカやろう〜!”」
歩けばさらに体は冷え込むだろう。右足の痛み、胃も焼けるように痛み始めている。
それでも走るより方法がない。『あぁ〜どこに行ったんだよ』とため息をつき、車を探しながら、走る。しかし、ひと目で分かるはずの、俺たちの派手なキャンペーンカーの姿はどこにも見えない。3kmぐらい進んだろうか?(気持ち的には、20kmも30kmも進んだような感覚でいる・・・!)「アッ・・・!いた」。遠く かすかに車と車の間に見慣れたキャンペーンカーが見え隠れしている。安心と安堵の中で、余計に体中が痛みを訴える。嬉しい半面、『牧人は何をしてるんだ』と怒りがわいてきた。
やっと、車に追いついた。いきなり「なにやってるんだよ!」と怒鳴った。牧人は驚いて「すみません。明日の準備に追われていて・・・・・」と。「・・・・・!」。『ごめん』俺はなんて馬鹿なんだろう。牧人には、牧人の仕事が他にもたくさんある事を知っているはずなのにね。俺は俺のことしか考えていなかった。牧 人はそれでも俺の体や足の事を心配して話しかけてくる。「・・・・」俺はただ黙って目で痛みを伝えた。すると牧人が「この先の途中にラドン温泉がありました」と。俺は「そこに行こう」と声をあげていた。
北海道江別で入った、ラドン温泉が痛みをとってくれていた事を思い出し、心の中で大きな「希望」に変わっていた。
今日の俺は、心身ともに不調である。
右足痛 Down 仙台
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1985年9月24日(火) 野宿先:仙台若竹パチンコ屋駐車場2日目 雨
仙台 (休養日) 市役所、ビクター営業所、ラジオ生出演、取材
今日も雨だ。
『秋晴れ』って言葉あったよね。『秋晴れって・・・・思い出せないよ!』
車の中は湿気で気持ちが悪いし、臭い。
前日、痛めた右ひざや内臓もいまいちだ。でも、『休養日』と言う言葉が、どれほど心を癒してくれている事だろう。とにかく、車の中が湿気で気持ち悪かろうが、臭かろうが、心が安らぎを感じるのは、すべて『休養日』の成す技だろう。
しかしです。それもつかの間、牧人の言葉で『休養日』 = 『ラン以外のキャンペーン』と言うことの現実に戻された。
「まことさん今日はスケジュールが、いっぱいです。夕方近くまでなります。大変ですが、頑張ってください」と牧人が切り出し、予定を言いだした。「まずは9時に市役所に行き、ビクターの営業所、新聞の取材、地方紙の取材、ラジオの生放送、取材コメント録音・・・・etc」。「はい・・・了解!!頑張りま〜す」と 。でもそれはそれの方が楽しみだ。
仙台も雨となると、車が大混雑していた。市役所に着き、秘書課に行き、市長に一筆貰った。そして、市役所から駅前ビルのビクター営業所に出向いた。宣伝の角田さんは身長185mの大柄な体で俺たちを待ち受けていた。「ご苦労様です」と気取らない笑顔で迎えてくれた。「僕、第一印象よくないでしょ!」と言う。「 ・・・・そんなことないですよ」。「そうだお昼、焼肉でもどうですか?長距離を連日走っているのですから、栄養とってもらわないと・・・」と。「あぁ〜大丈夫です、営業所のおごりですから・・」と笑った。『胃の調子が悪い』なんて言えるテンポではない。「はい・・・」と笑顔でかえしていた。
しかし、心の中は、体とは裏腹に、『毎日、ホカホカ弁当だったからな…』と焼肉の言葉の響きに、心は有意義になっていた。『さて、この角田さんのどこが印象が悪いと言うのだろう?』と思った。とにかく、笑顔でよくしゃべるし、おもしろいし、気取らないチャーミングな大男であった。ビクターの営業所関係では、は じめてのタイプで、俺的には相性がいい。
焼肉を焼き始めたら、胃が悪いことなど忘れ、欠食児童のごとく3人でむさぼるように食べていた。その流れを見ながら角田さんは、さらに焼肉の注文を重ねて行く。「美味しいですね」「美味しいでしょ!」「他は何がお好きですか・・・?」と。
気がつけば、満腹で睡魔が襲ってくる。しかし、角田さんパワー全開で、午後いち仕事開始。角田さん、完全に俺の心を誘導していた。とにかく、俺のテンションをあげるのがうまい。そして調子に乗せてから、仙台NHKにある河北新報に案内し、取材をテンポよくこなし、それから東北放送のラジオスタジオへと時間通り案 内していく。営業所のプロであった。
東北放送 ラジオスタジオに通されるや、あっと言う間に「生放送」が始まった。ちょっとした緊張感の中、アナウンサーとおもしろいように会話が弾んでいった。でも、歌の話題よりも全国縦断の話が中心になって行く。
番組の途中、キャンペーン曲「抱きしめて」のレコードが回りだすと、アナウンサーはマイクのスイッチを切った。そして、ワンコーラス聴いてから静かに「やっぱり、」古代さんみたいな大人の歌手はいいですね。話題は豊富だし、何よりも人生観を持っている」と言いだした。こんなことを言われたのは初めてだった。『 この人、ちょっと調子がいいのかな!?』と作り笑いして顔をのぞいた。でも、悪い感じはしない。「この曲、お世辞抜きでいい曲ですね。ヒットするといいなぁ」とまたつぶやいた。レコードの曲が終わると、アナウンサーは、縦断の話から、音楽の話に変え「抱きしめて」を番組放送内で絶賛してくれた。『嬉しかった。本当に 心から絶賛してくれた事を感じた』。
スタジオから出ると、牧人にディレクターが駆け寄り「もし、お時間の都合がつくなら、この後、古代さんにジョギングについて、また、全国縦断についてなど、ラジオを聞いている人からの質問に答えてもらったり、また、これからジョギングを始める人達にアドバイスするという形で、『電話、お話コーナー』を設けよう と思うんですが、いかがでしょうか?」と言う。牧人と角田さんを見ると、ふたりとも笑顔でうなずいていた。
ふと『この後のスケジュールはいいのだろうか?』と俺が心配になった。しかし、牧人も角田さん余裕で雑談していた。控え室で30分ほど待っている中、実は、俺は驚いていた『地方局とは、いきなり番組にこんなコーナーを作ってしまうのかと・・・?』。
そして、改めてスタジオに戻るやディレクターは、ニコニコしながら「かなりの反響で、今のところ8本電話が入っています」と言う。生放送がまた始まった。先ほどのアナウンサーが改めて俺を紹介してから、電話の主に変わって行く、1人目が終わり、2人目の電話の主は女性だった。テーブルの上に紙切れが置かれた《 古川市 女性、30歳、これからジョギングを始めるが、どんなことを気をつけたらいいか?》と書いてあった。
電話に出た「もしもし、古代まことです」と言うと、電話の主の女性は、いきなり「先日、古川市であったヤクルトおばちゃんです」と言った。「あぁ〜」。そう言えば、3日ほど前、ガソリンスタンドによってお茶やヤクルトを出してくれた女性を思い出した。「先日は、ありがとうがざいました・・・」しかし、ラジオの 生放送の上、これ以上、私的な事を話すことも出来ず、ありきたりの質問回答で終わった。でも、あの時のあのガソリンスタンドの人達の顔が浮かび、嬉しかった。
その後も生放送は続き、トラックの運転手が、公衆電話から激励をしてくれたり、タクシーの女性ドライバーが事故の無いように気遣ってくれたり・・・短い時間ではあったが、心が癒される思いであった。でも、ヤクルトおばちゃん(30歳では、おばちゃんではないよ。俺と同級生だから)ともう少し話したかったなと心 で思った。
思いがけない番組延長の中、無事終了。ディレクターとアナウンサーと硬い握手を交わし、東北放送を後にした。しかし、牧人は「時間が押していますが、あと2本予定がありますので、頑張ってください」と言う。おどけるように『OK』と笑った。
『いやいや牧人、昨日はごめんな。こんなに予定を入れるために昨日、動いてたんだね』。言葉には出さないけど、精一杯の態度で牧人に昨日、怒鳴った事を心で詫びた。
その後は、日刊スポーツの取材、FM岩手の開局コメントなどが続き、終わったのは、夜になっていた。
ビクターの角田さんは、遅くまでありがとうございました。と丁重に挨拶してから「古代さん、よかったらウチでメシでも食べませんか?」と誘ってくれた。「洗濯もできるし、風呂も入れるし、女房も古代さんに会いたがっていて、家庭料理、御馳走したいって、言ってるんです」と。何て嬉しい言葉だろう。これは、もう 仕事を超えて、友人の域に達していた。こんなに人の触れ合いの素晴らしさを感じる事はない。今日と言うこの幸せをとことん心で感じ、角田さんに「ありがとうございます」と好意に甘えることを伝えた。
東北放送ラジオ生放送
古川市ヤクルトおばちゃん
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1985年9月25日(水) 野宿先:仙台若竹パチンコ屋駐車場3日目 雨
岩沼市から白石市福岡
27.6km走破 23,000歩 2時間16分20秒 総合距離1281.1km走破中
1.12:45(岩沼市)→国道4号(13.2km地点)大川原町 1時間07分15秒
2.14:50分(13.2km地点)→白石市福岡 2時間16分20秒
「どうした事だろう?今日もまた雨。大降りではないが本当にいやな気分だ」。
『秋雨前線停滞中に付き、心身、ずぶ濡れ状態』って感じである。
朝、目が覚めた瞬間に感じる体の状況は、最悪。アキレス腱が痛みだしている。そして、背筋、両ひざなど節々が痛む。トイレに向かう足取りもやっとの思いだ。だから、日課であるストレッチも、さらに入念になる。
3日間寝泊まりした仙台若竹のパチンコ屋の駐車場脇の片隅で霧雨を恨みながら、ストレッチを続けていると「おはよう」と太い声が後ろからかかった。
そうなんです。いやな事ばかりではありませんでした。豪快な楽しい出逢いもあったのです。実は、このパチンコ「ロイヤル」の店長と仲良しになっていたのです。
1日目のゴール後、トイレを借りた事が始まりでもあったが、このパチンコ屋の店長、新聞記事を読んでいたり、ラジオも聴いてくれたりで、異常に俺たちに親切だったのです。
そう本当の切っ掛けは、1日目の夜。牧人にこんな事を俺は言ったのです。「牧人、この駐車場を借りているし、トイレや洗面もさせてもらうのだから、少しパチンコ屋に行って遊んでこいよ」と。そうなんです。牧人は東京でもパチンコが大好きで、よく通っていた事を俺は思い出していたのです。挨拶とストレス解消の一 石二鳥と考えたのです。案の定、牧人は大喜びで「わかりました」と大きな声を出して、出かけて行きました。しかし、20分もたたないうちに牧人は戻って来てこう言うのです。「まことさん、お店に顔を出してください」と。『めんどくさいなぁ〜、サインでも店長に頼まれたのかな?』と思っていると、そうではないらしい。「 どうした?」と聞くと、「パチンコがメチャメチャ出るんですよ。店長が、まことさんも連れておいでと言ってるんです・・!」「マジかよ!でも、なんで俺も…?」「とにかく見に来てください」と。あまり気が向かないが、これも流れと思い、イヤイヤ顔をだすことにした。しかし、それからが大変な事になったのです。つまり 、玉が出る台をこっそり店長が教えてくれるのです。だから、おもしろいように玉は出てくる。つまり、ふたりで大儲けしてしまったのです。しかも、3日間も。
実は、すでに縦断は、かなり先に進んでいたのですが、仙台でのキャンペーンの関係で、3日間ここに野宿したのです。つまり3日間も、パチンコで大儲けしたと言う事になります。『これは絶対、事務所には言えない秘密です』。
そして、今日出発する前、ストレッチをしていると店長が後ろから声をかけて来たのでした。「店長、本当にお世話になりました」と言うと、笑って「少しは儲かっただろ。まぁ、旅の思い出に、少しだけ俺からのカンパってところかな」とケラケラ笑った。そして、牧人に「レコード置いてきな。サイン付きでな」と言い、 5枚も買ってくれた。「本当にありがとう御座いました。この御恩は一生忘れません」とふざけたように言ったが、心は、本当に名残惜しかった。店長が大きく手を振って別れを惜しむ中、車を霧雨の国道4号へと走らせた。
若竹のパチンコ屋から岩沼市のスタート地点に着くまでに、車で1時間近くもかかってしまった。改めて車で移動してみると、自分が走っている距離が恐ろしいほど長く感じ、驚いた。
さて、スタート地点は、朝と同じような霧雨に変わりはなかった。遅まきながら12時45分スタート。やはり調子は良くない。30分ほど走ると、足や背中に痛みを覚えた。迷わず包帯で固定して、ゆっくり走る。大川原町まで何とかたどり着いたが、雨が体を濡らし、体全体が、冷たく硬直し痛みを訴えている。牧人にサ インを出し、大川原町の4号線沿い「ほかほか亭」で休憩する。
14時50分。再スタート。『とにかくゆっくりでも前に進みたい』。5kほど行ったところでめまいに襲われる。このところよくあるのだ。血圧が低いのかもしれない。100メートル走る。今度は貧血だ。後ろにいるマネージャー牧人の車を止めた。牧人はすぐさま降りてきて「大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」と言っ ている。後ろの座席に倒れ込む。体がしびれ、気分も悪い。牧人は冷えたタオルを首、そして顔の上にのせてくれた。栄養ドリンクを飲んで少し寝た。寒さを感じる。外はかなり気温が低いようだ。
・・・・凄くながく寝たように思う。しかし、時計を見ると10分程度だった。
『とにかく、少しでも前に進め』と心が叱咤する。
牧人が、「もう少し休んでください」と言っているが、俺は、走り始めた。ただ夢中で走る。今思い出すと、どんな気持で、どんな状態で走ったのか、あまり覚えていない。ただただもう少し先へ、もう少しと考えていた。
気がついた時には、白石市に入っていた。牧人が車を前方に止め、俺を止めた。「福島までもう30Kありません。今日はここで終わりにしてください」と言う。俺も限界を超えていた。そして、うなずいた。
ゴール地点のすく横に、温泉宿を示す看板が目についた。思わず牧人に声をかけた「牧人、パチンコ収入でこの温泉に泊まろうぜ!」と。牧人も看板を振り返り、そして、笑った。
秋雨前線停滞中
9月25日は貧血
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1985年9月26日(木) 宿泊先:蔵王山麗 小原温泉ニューかまくら 晴れ
白石市福岡から伊達町
25.6km走破 23.850歩 2時間16分20秒 総合距離1306.7km 体重53.5kg
1.12:00(白石市)→国道4号(12.3km地点)国見町 1時間08分08秒
2.15:00(国見町)→国道4号(25.6km地点)伊達町 2時間16分20秒
思わぬパチンコ収入で昨夜は、蔵王山麗「小原温泉ニューかまくら」に宿泊した。
久しぶりにゆっくり温泉に浸かり、体を癒し、美味しい夕食をとって寝た。
しかし夜中、突然、激しい吐き気に襲われ、何度も何度もあげてしまった。朝起きると体はやつれ、牧人が心配そうに「顔色、悪いですね」と言う。『やっぱりな』体調は本当に悪かった。おまけに右ひざもかなり痛む。
しかし、今日の日程を考えると、朝食は無理やり食べようと努力した。何としても今日中に福島にたどり着きたかった。なぜなら、今日は東京から事務所の専務が来るからだ。
「ニューかまくら」を9時に出発。途中、白石市役所に立ち寄り、車でゆっくりマッサージを受け、ストレッチも入念にしてから、零時きっかりにランスタートした。
5km走ったところで、右足に激痛が走った。車を止めて塗り薬を塗り込み、包帯で固定した。走り方もスライドを小さくして右のひざに体重がかからないように工夫した。これだと痛みは続くものの、走れる事は走れる。しかし、スピードはいつもに比べて格段に遅い。それでも県境の福島側に入ったドライブインまで(12.35km )たどり着く事ができた。
「ドライブインさかえ」で休憩、足の治療、昼食にすることにした。
ここの女将はサービスするのが好きなのか、注文したおかずより、いろんな物を俺達に出してくれる。いや、俺達だけではないようだ。見渡していると、来る人来る人にサービスしている。気さくな女将で見ていて気持ちがよかった。またこのドライブインには、道路交通の警ら隊や警官も頻繁に出入りしていた。これも女将 の人柄なのだろう。
満腹になり、一休みしたところで、駐車場でミニライブをしようと思いついた。今日は福島市内でキャンペーンもあるので、いい練習になるだろう。。そして、歌いだすや、先ほどの女将が出てきて、我々にコーラを振る舞ってくれた。「ありがとうございます」と言うと、女将は「誰にでもそうしてるから・・・頑張りなさ いね」と言って去って行った。そのうちに様々な人から声をかけられたりしたが、レコードは、一枚も売れなかった。『やはり、体の調子が悪い』
午後3時、気合を入れて再スタート。
しかし、走り始めるや右ひざはかなり痛む。『この分だと、福島市には、たどり着けないだろう』と頭をよぎる。それでも、何とか誤魔化し誤魔化し走り、午後5時前に伊達町に入った。すると、牧人が「今日はここまでにしましょう」と俺を止めた。
今日はこれから福島市役所で福島民報の取材、その後、レコードのキャンペーンライブが予定されているからしょうがない。
福島民報の取材を受けた後、今日の宿泊先ワシントンホテルに向かった。そこで事務所の専務、鈴木さんに1ヵ月半ぶりに再会した。「頑張ってるな・・・・!」と。何となくその一言だけでも、気分は和らいだ。積もる話もあるが、この後すぐにレコードのキャンペーンに行かなくてはならず、そそくさと支度を始めた。
福島市内の「ルパン」と言う店には8分目のお客さんが待って居てくれた。すぐにギターを抱え歌いだした。しかし、歌が空回りしている。『あれ、どうしたんだろう。声が出ない。集中できない。』そう思った時、頭がかすんでくる感じがした。『貧血?』会場は終始ガヤガヤして、話声がかなり聞こえてくる。『うるさい なぁ〜』と頭で思った瞬間、歌詞を間違えた。『あぁ〜歌詞が出てこない・・・・!」いろんなところからヤジが飛んできていた。『いや、こんなはずじゃない』と思えば思うほど焦る。しかし、集中しようとしても空回りしていくばかり。底なし沼にはまるかのように、自分を見失い、周りばかりが気になった。曲と曲の間のMCも 何をしゃべっているのか分からない。脂汗が流れていた。そして、やっと歌い終わった。 拍手はまばらだった。30分ほどのライブは、気の遠くなるような長い時間に思えていた。
楽屋に戻ると、事務所の鈴木さんと牧人が立っていた。「・・・・・!」そして鈴木さんは「客席に行って、レコードを1枚でも多くの人に買ってもらうようにお願いしておいで」と言った。キャンペーンの洗礼を受けた瞬間だった。
福島に向かって
貧血 Down
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1985年9月27日(金) 宿泊先:福島ワシントンホテル 晴れ 体重:55kg
休養日 佐藤接骨院治療 夜:ライブキャンペーン
朝5時まで事務所の鈴木専務と話していた。
話題は無論この旅の事が中心だが、昨夜のキャンペーンについてもいろいろシビアな内容での会話だった。最終的には、俺の事を心底心配してくれている事が、伝わって来たし、厳しさの中にも優しさは充分感じた。それ以上に、依然よりずっと強くなっているおまえがそこにいると言われた事が嬉しかった。
だから、本当は、家族の事や亡くなった「こまわり」の事を聞きたかったが、心の中に閉じ込めた。
かくして、旅をして初めての二日酔いである。
「ボンジュール」と言う喫茶店で水をガブガブ飲みながら、食事をしたりコーヒーを飲んだりと時間をつぶしていた。昼近くになって、牧人がやって来て「まことさん16時半に接骨院に予約が取れました」と言って来た。「この辺では、そうとう名医だそうですよ」と。「ほんとか?でも・・・・?そうだな!そう思っていってやるか!」と冗談のつもりが・・・。横にいた事務所の鈴木専務が「治療に行けるだけ幸せに思え・・・!」と仁王立ちして怒った。「まこと、予約の時間まで、まだ時間があるから、東京方面を中心に、お世話になっている人達に出来るだけ多く電話しろ。いいか、それも仕事だぞ」と。『ああ〜タイミングが悪かった』。渋い顔だったと思う「わかりました」と力なく答えた。
それから、鈴木専務が指示するところに、3時間ほど電話を掛けまくった。
電話した相手はみんな、俺の事を心配してくれていたし、勇気づけてくれもした。中でも事務所の近間社長の大きな笑いと「悪さはするなよ。最後までしっかりな…」との快活な声は印象的で元気になった。
久しぶりの家族の声も元気で安心したし、娘の声が聞けた事が、一番の元気の源になった。たぶん電話台は、1万以上かかったと思う。まぁ〜事務所の経費だから心配ないが・・・!でも、電話してよかった。
16時、牧人の迎えが来て、佐藤接骨院に向かった。車の中で静かに考えていた。『もうこれ以上走らないでください』とか言われたらどうしよう!「この足は重症です・・・・!』。考えれば考えれ程、不安は一層大きく、はっきりとした輪郭を持っていた。なぜなら体中がやっぱり痛かったからだ。
佐藤接骨院に着いた。年の頃から言うと50過ぎの先生だった。
縦断の話をすると、ニコニコして聞いてくれた。そして、得意そうに「任せなさい。大丈夫だよ」と言って、いきなり手荒な治療が始まった。痛みを我慢するのに精一杯。『あぁ〜逆に壊される』と思うほどだ。そしてあらゆる動作で体中をボキボキとやったあとで「さぁ〜歩いてみな」と言う。「・・・・・・?」。恐る恐 るベットから降りて歩いてみた。「エッ!」痛みがない。体が宙に浮いているように軽くなった。びっくりして牧人と顔を見合わせた。
結論を言うと簡単に治ってしまった。佐藤先生曰く「骨のバランスが崩れているからだよ。この痛みや張りは、君が頑張った証拠。疲れがたまっているから起きているんだ。ほら、もう大丈夫だろ…?」「はい」。
ただただ驚くばかりだった。福島市鳥谷野にある佐藤接骨院の先生は、本当に名医だった。
ホテルに帰り、少し仮眠すると、がぜん元気を取り戻していた。今夜も福島市内の「すみれ」と言う店でライブキャンペーンがある。が、おもしろいもので、体の調子がいいので昨日のような失敗はないだろうと思えた。
昨夜の事は忘れ、今日はプロとして集中して歌おうと気合を入れて出発した。
福島市 佐藤接骨院
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1985年9月28日(土) 宿泊先:福島ワシントンホテル 体重56.5kg
伊達町から二本松市
30.4km走破 2時間22分19秒 24.900歩 総合距離1337.1km走破中
1.12:00(伊達町)→国道4号(10.9km地点)福島 51分50秒
2.17:00(福島) →国道4号(30.4km地点)二本松市 2時間22分19秒
2日間の休養、佐藤接骨院の先生のおかげで体は軽く感じる。そして、体重は蔵王温泉の時より3kも戻り、56.5kになっていた。大拍手である。
午前中、ワシントンホテルで事務所の鈴木専務と今後のスケジュールを確認して、それから別れた。これから東京目指してまた牧人とふたりだけの珍道中の再開である。
伊達町まで引き返し、見あげた空は、鉛色の空。今にも雨が落ちてきそうなふてぶてしい空に見える。体も重い。でも、気分は乗っている。大きく体を動かす。右ひざや節々の痛みは全然ない。『OK』 改めて佐藤接骨院の先生は名医だと頭を下げた。
走り始める。調子は良い。しかし、無理は禁物。10kmほど走り、牧人に休憩のサインを送った。「体の様子を見よう」と。なぜなら、治療の後、2〜3日は『だるさが残るし、体を気遣って』と先生に言われていたのである。思い切って、仮眠する事にした。その方が体にいいと思ったからだ。
牧人も、この2日間、鈴木専務に気を遣い、俺から見てもちょっと疲れ気味。「牧人、お前も少し仮眠しろよ」と言うと、素直に「そうします」と言う。ちょっとした空き地に車を止め、休んだ。
ふと目が覚めると、牧人はまだ熟睡している。目をこすりながら腕時計を見やる。「エッ!!」もう一度眼をこすり時間を確認する。「4時半」。あわててとび起き、牧人を起こす。今日は最低でも30kmは走りたい。
寝起きの体はだるいうえ、走る気持ちになれない。それでも、ストレッチを時間をかけて気分を変えて行った。
そのうち、雨がポツポツと降り始めて来た。しかし、天気とは裏腹に、体は完全に目覚めていた。
「ヨッシャ〜行くぞ」と声をあげ走り始める。2〜3km走っただろうか?久しぶりの好調に心が躍る。走る事がこんなに楽しいのは久しぶりだ。こうなれば『行ける所まで行ってやれ』とエンジンを切り替えた。
気がつけば目標の30kmを軽く超えた。牧人が暗くなった歩道に立ち『30km』を超えたサインをして、俺を止めた。「雨も降っていますし暗くなったので、今日はここまでにしてください」と言う。
「もうちょっと走れそうだぞ」と言うと、首を振った。「そうだな、この夜道では危ないか?」と久しぶりにふたり笑いあった。
伊達市を出発
今日はここまで
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1985年9月29日(日) 野宿先:国道4号線 パチンコ「まゆみ」駐車場
二本松市から郡山大町
天気:雨 体重:56kg 本日26.3km走破 2時間07分57秒 21.950歩
総合距離1363.4km走破中
1.11:30(二本松市入口)→国道4号(13.2km地点)本宮町 1時間05分58秒
2.13:40(本宮町)→国道4号(26.3km地点)郡山大町 2時間07分57秒
「あぁ〜まただ・・・!」とがっくり。車の窓に雨が降りつけている。しかも、ザーザーとだ。今年の秋雨前線は俺とともに本州を下がってきているようだ。
この雨のせいだろう。二日前と同じ痛みが両足を襲っている。体全体もだるい。佐藤先生は「2〜3日後まで、気をつけて」と言っていた。雨がうらめしい。
朝食を買いに二本松市に車を移動させた。雨はさらに激しくなっている。でも、体調の事は、牧人には言わなかった。弁当屋でノリ弁、オムレツ、インスタントみそ汁を二人分買い、福島民報の新聞も買った。
おなじみの朝食をとりながら、ゆっくりと福島民報の三面記事をチェック。そこには俺の記事が写真とともに乗っていた。記事の内容は大体どこも同じような流れで書いてある。もう嬉しいとか感動とかの感情はわかない。ただその記事が記載される事が大切である事に感謝するのみである。あれ、その横に三浦事件も出てい た。
車の中で「外は寒くて、雨はかなり冷たいだろうなぁ〜」と独り言を言った。すると牧人は、聞かなかったふりを見せ「今日は雨の中を走るのだから、入念に体、もみますよ」と元気な声をあげた。
雨は、激しく降り続いている。車の窓ガラスは曇っている。外はかなり寒いようだ。マッサージを受けながら『こんな日は走りたくないなぁ〜!』とずっと考えていた。
11:15。牧人のひと声「さぁ〜今日も頑張りましょう〜!」とマッサージは終わった。
観念して外に出る。寒く冷たい雨が体を硬直させる。体操を始めて間もなく、体はずぶ濡れになった。
走る。ただ前を向いて。心が体と向き合い会話する。『大丈夫?』『いや、体が重いね』『どこが・・?』『特にかかとが雨で硬直して走りずらいよ』『でも、もう少し行ってみようよ』『いや、そろそろ休んだ方が・・・・』心の中では自分との葛藤。それでも自分自身と向き合いながら前を向いて走る。心の中の強い自分 がどこかでつぶやく。ただ郡山に着きたい一心だけが、すべての支えなのである。
午後3時前に郡山大町に着く。本来の日程ならあと10km先の須賀川市まで、走る予定であるが、牧人は「今日のスケジュールは、この後、市役所で、また福島民報の取材、そして郡山ワシントンホテルでのライブキャンペーンがあるので、ここをゴールにしましょう」と言う。
嬉しいな、と思う反面、予定より10km手前で、切り上げてしまった事が気なるコールであった。
午後5時にワシントンホテルに入り、午後7時にキャンペーン。お客さんは少なく、どのように進めていいのか迷っていた。その時、ふと気がついた。嬉しい事にお客さんの中に、わざわざ東京からふたりの友達が応援に来てくれていたのだ。
がぜん元気が出ていた。『すべてが思い通りに進むわけではない』そうだここに来てくれている人達の為に、とにかく、心を込めて歌おうと気持ちを切り替えた。
二本松市スタート
郡山ワシントンホテル
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1985年9月30日(月) 宿泊先:郡山ワシントンホテル
郡山市大町から白河市まで
天気:曇り時々晴れ 体重:55kg 走破:40.4km 34.850歩 3時間20分35秒
総合距離:1,404.8km走破中
1.10:20(郡山大町)→国道4号(12.6km地点)須賀川市 1時間00分13秒
2.14:15(須賀川市)→国道4号(27.1km地点)矢吹町 2時間10分30秒
3.15:30(矢吹町) →国道4号(34.0km地点)白河市入口 2時間50分44秒
4.17:10(白河市入口)→国道4号(40.4km地点)白河市 3時間20分35秒
「おーい、雨雲よ。たまにはさわやかな太陽見せねぇ〜か!」。
なんて言ったら、出発前には、雨は止み、曇り空に変わった。曇り空でも、雨の降らない空は、今の自分にとって気分がいい。そう快だ。
体調はもうひとつだが、今日は何としても50km走破して日程を戻したいと心に誓っていた。正確には那須町まで52km。何としても走りたい。
10:20郡山の大町をスタートした。
空を見上げ『俺の念力も凄いね』なんて思ったその直後、雲と雲から待望の太陽が顔をのぞかせた。「Yeah〜」。心の中は全快になり、気分よく走る。街の人の声援。車のクラクッション。いい感じでみんなが応援してくれる。これが理想のパターンと得意げに進んで行った。
一回目の休憩のとき、少し気になりだした両足に包帯を巻きひざを固定した。『心配ないと思うが、念には念を・・!』
空は、秋晴れとはいかないが、やはり雨とは大違い、風も心地よく体を包み、気分は良好である。とにかく、気持ちのいい時は、体の切れが違う。だからどうしてもスピードが上がる。そして、実力以上に走り続けてしまうのだ。『やっぱり、楽しい〜』と、思った時だった。
めまいが始まった。目が回る。真っすぐに走っているがよろけてしまう。一気にスピードを減速する。頭の中ではいろんなことが駆け巡る。『カロリー不足かな?、食事のバランスが悪いのだろうか?イヤイヤどこか病気になっているのだろうか?』とにかく、走る事の専門知識もなく、こんな馬鹿な計画をしている自分が急 にうらめしい。
めまい、貧血。
少し休憩をすることにした。牧人も心配そうだ。実際にどうしたらいいのか分からない。とにかくレストランに入って高カロリーな物を食べようと言う事に決まった。俺はバンバーグ定食にご飯大もりを注文して平らげ、牧人の指示で、少し車で仮眠した。
レストランの駐車場で起きる。気分的に回復しているようだ。すると筋向かいのリンゴ屋のおばちゃんふたりが何か大きな声で俺を読んでいる。『エッ。リンゴ食って行け』と言ってるのだろうか?
レストランの向かい側に、2軒のリンゴ直売店が仲良く並び、おばちゃんふたりも仲良しのようだ。「お兄ちゃん歌手だろ!これ食べて行きな。これでいい声でるよ」とむいたばかりのリンゴを手渡してくれる。「うまい〜」。本当にうまいリンゴである。牧人も珍しく口いっぱいモグモグさせている。話が盛り上がるが「そ ろそろ行かなくちゃ」と言うと「お兄ちゃん、このリンゴ持って行きな」とおばちゃん達2個づつ、差し出してくれた。そしておばちゃん「あんたの車に張ってあるポスターにサインして、くれないかね」と。「もちろん、お安いご用で」とポスターにサインして渡した。思った以上に喜んでくれるおばちゃんが嬉しかった。
一瞬のこんな出来事が、また心を元気にさせてくれるものなのです。
「おばちゃん、ありがとうね」と握手して別れた。
気分はとてもよかった。走りも回復、順調だ。とにかく、このまま維持して行ければと。それでも気遣いながら走った。
走りだして5kmほどは調子が良かった。しかし、徐々に足が重くなり始める。牧人には、調子がいつ悪くなるか分からないので、車で近くに居るように指示していたから、少しは気持ちに余裕はあった。
しかし、悪くなるのは一瞬だった。胃袋が燃えるような熱さを感じた。痛みが走る。気持ちが悪い。それでも、我慢できる範囲かなと。車の牧人には異変を知らせ、それでもゆっくり走る事も伝えた。車は俺を先導するように走っている。俺はその車を追いかけるように、ゆっくりゆっくり走った。『どんな形でも走らねばな らない、一歩足を前に踏み出せば…!フッと、どうして、ここまでやるのだろうか?』と考えた。答えは早かった。『今、俺は、愛する家族が待つ東京に向かっている。一歩前に進めば東京は一歩近づく。だから、走るんだ…』と。
頭と体は比例していなかった。だから、何度も休憩を入れつつ、また走り始める。もう執念だった。いつの間にか、両足も痛み出し、胃も痛み、貧血も繰り返していた。
それでも心は東京へ向かっていた。ただ一歩でも前に進みたいと言う気力が、残ったエネルギーを引き出しているようだ。
しかし、白河市街の見える国道4号線で牧人に止められた。時計を見ると午後6時を過ぎ、あたりは真っ暗だった。道路に今日のゴールの印を書いていると、後ろで牧人がライトを照らし「頑張りましたね」と言った。
親切なリンゴ屋のおばちゃん
牧人の目線
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1985年10月1日(火) 野宿先:白河市4号線 パチンコ「京王」駐車場
白河市から西那須野町まで
天気:曇りのち晴れ 体重:54kg 走破:42.7km 36.400歩 3時間30分12秒
総合距離:1,446.5km走破中
1.10:15(白河町)→国道4号(18.8km地点)那須町小島 1時間35分29秒
2.14:10(那須町)→国道4号(29.8km地点)黒磯市 2時間29分42秒
3.15:40(黒磯市)→国道4号(42.7km地点)西那須野町 3時間30分12秒
車にヒーターが入っている。非常に寒い朝だ。
外をのぞくと今日も空は鉛色。青空が覗かないかなぁ〜と沈んだ気持ちにしたっている時「今日は40km以上ありますから早くしてください」とマネジャーの牧人が、投げやりに言った。「なに?」一瞬ムカッとした。日程が遅れており、彼の気持ちもわからないではないが、百も承知。しかし、言い方が無性にイラついた。
心の中での葛藤は、毎日ある。そして毎日違う。
一つ一つ解決したと思っても、また同じことでくよくよしたり、落ち込んでしまったりの繰り返し。何とかいい方向に考えようとはするが、その時の体の具合と、心の感情で、また同じことに迷う。
牧人の立場も分かる。しかし、イライラする自分もいる。
きっと、東京の事務所から何かを言われ、俺にゲキを飛ばさなくてはいけなかったのだろう。
走る距離が40kmと50kmでは、全然違う。しかし、計画時、頭で考えた40kmも50kmもさほど差がなかったように思う。しかし、いま10kmの違いがどれほど大きく、苦しいものかを自分自身が体験している。
日程を戻し、よりスムーズにキャンペーンをしたいが、その都度、大きな壁に着きあたっている。しかし、この企画を練ったのは、大半が自分なのだから文句は言えない。
気分を変えよう。
しかし、1kmも走らないうちに、のどが渇き、心が乱れる。しかも、向かい風。
それでも、心のもう一人が『今日は50km走破!』と気合。その言葉に心と体が足を運ぶ。何を考え何を苦しんでいるのかも忘れ、ただ前を向いて前進した。「昼食にしましょう。ここまで18.8kmです」と牧人が言った時、我に返った。
昼食をとり、いつものように仮眠した。
しかし、疲れた体とは裏腹に、頭はいろんなことを考え、寝ているはずなのに夢の中でも考えつづけていた。
縦断も約一ヶ月半を経過した。総合距離も1,500km近くになった。しかし、俺の心は、日ごとに揺れ乱れしている。時間が過ぎるごとく、心は落ち着くものと考えていた事は、甘かったようだ。逆に、どんどん奈落の底に落ちて行くように思えたりする。
牧人も、いろいろ苦しいであろう。それは、目に見えないところで我慢し合っているからだ。たがいに気遣う心はある。しかし、互いにイライラし始めている事も否めない。
中途半端な心のまま、14:10再び走りだした。
『今日だけは、苦しくても苦しいと言うのはやめよう』と誓っていた。
人間の心とは面白いものです。心に軸が出来ると、初めのうち苦戦して走っていたが、次第に調子に乗ってくる。苦しさの中で余裕が生まれたというか、心技体のまとまりを感じていた。
牧人も朝とは違っていた。西那須野町「日本石油」の前で、牧人が「今日は、ここまでにしてください。今日はフルマラソンでした」と、にこやかに笑った。おかしなもんです。この笑顔にすべての問題が解決したように思えるのですから!
この日本石油の前で、タイムや万歩計の歩数をノートに書き込んでいると、スタンドの「黒沢」と言う人が話しかけて来た。
「俺、あんたが白河市を走っているところを見たよ」と人懐こい感じ。縦断の事をいろいろ聞かれ答えている内に、近くの高校生も寄って来た。素朴な感じでとても楽しい。話の流れのなかで風呂屋を尋ねると、この街にはないと言う。困った顔をすると「内のスタンドのシャワーに入っていきな」と黒沢さん。思わず「お言葉に甘えさせて頂きます」と言っていた。
旅先で楽しい出会いや優しい言葉に会うたびに『今日頑張ってよかった』とつくづく思う。今日は心がイラついていたから特に思うのかもしれない。そして、心からその人に「ありがとうございます」とつぶやく自分がそこに居た。
とうとう栃木県
西那須野調日本石油の前で
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1985年10月2日(水) 野宿先:西那須野町国道4号線 ダイヤホール駐車場
西那須野町から宇都宮県庁前まで 走破距離45.9km
天気:快晴 体重:55kg 歩数:37,000歩 3時間32分26秒
総合距離:1,492.4k走破中
1.08:30西那須野町→(18.6km地点)矢板市大槻 1時間29分24秒
2.11:05矢板市 →(30.9km地点)高根沢町入口 2時間26分06秒
3.13:30高根沢町 →(45.9km地点)宇都宮県庁前 3時間32分26秒
「Yeah〜秋らんまん!」
なんともすがすがしい朝を迎えた。見えるものすべてが朝の輝きを放ち、深呼吸をすると、体いっぱいに、おいしい空気が駆け巡る。待ちに待った秋晴れの朝なのだ。
心は絶好調。体は、ちょっといまいち。でも、飛び跳ねたい気持ちを抑えるのは無理。駐車場の真ん中で「あぁ〜最高だぜぇ〜!」と叫んだ。
宗谷岬を出発して以来、一番早い午前8時半のランスタート。
走り始めると、暑いぐらいの日差しに包まれ、気分はどんどん乗ってくる。『やっぱり晴れ渡る空の下はいい』。気がつけば、体はほぐれ調子は最高だ。足も思ったほど痛まない。
それに今日はどうしても、午後2時までに宇都宮まで到着しなければならない嬉しい予定がある。そう、栃木放送に生出演するのだ。気合が入っている。一応、休憩の度ごとに両ひざの治療をしながら、鼻歌交じり、力いっぱい走り続けた。
「あっと言う間」とはこの事を言うのだろう。調子がいいと本当に時間を忘れるね。
14:30。宇都宮県庁の500m手前に着いた。しかし、目標のゴール地点まであとわずかのその時、牧人に止められたのだ。『どうした??』と。『あと少しだから走らせろよ』と思った時、「もう間に合いません」の牧人の一言で、たった500m手前にもかかわらず、その場にチョークで印を付け、なんとそのままの格 好でスタジオに飛び込んだのだ。何ともドタバタ珍道中である。しかし、これが楽しいからたまらない。ディレクターやスタッフが俺の姿を見て、一瞬呼吸を止め、目を丸くしてからゆっくり笑った。「おはようございます。ビクターレコード古代まことです」と。
栃木放送の生放送は無事終わった。
それにしても、男性と女性のアナウンサーがふたりいたが、女性のアナウンサーが凄く美人で細かい配慮も嬉しかった。が、何と言っても放送中に「古代さんの精悍な笑顔が凄く素敵です」なんて言葉は、元気になるよね。『いや〜俺のタイプだなぁ〜!!』。
ポーッと余韻に浸ってると、その余韻をぶち壊すように、牧人が「まことさん、これからが今日は大変です」ときた。「何が?」と言うと、「まず洗濯です。それから風呂、食事、今日のねぐら探しです。」と。ほんとうに大変だ。
とりわけ、洗濯が悩みの種です。大体コインランドリーがなかなか見当たらない。たとえあっても、洗濯機5台分はゆうにあるため、すぐには終わらない。
とにかく、うろうろして、直感を頼りに探すしかないのだ。でも意外にこの直感ってやつが当たるから時に、おもしろい。さて、今日はどうなるか?牧人とビール一本、賭けをした。
洗濯が終わったのは、午後10時半を過ぎていた。
洗濯の途中、牧人が東京の事務所に電話を入れた。すると鈴木専務が『5日の午前11時半までに東京の国会議事堂前に絶対ゴールしろ』と言ったそうである。東京まで120km以上ある。あと3日で120kmとすると毎日40km。言葉で言うのは簡単だが、午前中ゴールを予定する事になると、1日50kmを2日間で当日20km走る計算が成り立つ。いやはや、事務所サイドは能天気である。どうやって帳尻合わせようか考えていたら、腹が立って来た。「バカやろ〜!」
西那須野町スタート
ファンに囲まれて
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1985年10月3日(木) 宿泊先:マネジャー牧人の友人のアパート
宇都宮市から古河市まで 走破距離50.9km
天気:快晴 体重:55kg 歩数:43,950歩 4時間12分12秒
総合距離:1,543.3km走破中
1.8:50(宇都宮市)→(18.2km)石橋町 1時間33分00秒
2.11:30(石橋町)→(30.4km)小山町 2時間34分02秒
3.14:30(小山町)→(41.9km)小山市野木町 3時間30分12秒
4.15:50(野木町)→(50.9km)古河市 4時間12分12秒
秋晴れ快晴である。秋はこうでなくてはならない。何としても今日は、東京に近づきたい。東京の自宅に戻りたい。病床の父の見舞に行きたい。それには、東京まであと60kmと言う圏内に入らなくてはならない。天候、体調、すべての条件としてはすこぶるいい。8:50 入念な準備体操と牧人のマッサージでランスタートした。
出足はいつものように体が少し重い。が、5km行ったところで体全体のエネルギーと言うか、リズムで『今日はいける』と判断した。
右ひざは依然心配であった。『マイペース、マイペース』で無理しないように心がけて走った。太陽の光は、やわらかく降り注ぎ、さわやかな風が吹き抜けて、それは爽快で気持ちがいい。気になるひざもカカトも痛みもなく、15km地点、25km地点とグイグイ走れた。
マネージャーの牧人がもくもくと走る俺に、車から話しかける「今日は絶好調ですね。やっぱりマッサージが効いてますね」「ば〜か、俺の実力」ふたりとも上機嫌である。「今日は50kmほど走れそうに思いますよ。」「・・・・!?」「もしも、50km走れたら今日は東京に戻りましょうか!?」と。一瞬、牧人の顔を見た。牧人は嬉しそうな顔をしている。『そっか!牧人も和子(牧人の彼女)に会えるしな!』。「OK、絶対50km走るからな!」東京が近付くこのエネルギーが、きっと俺達にも思いもよらないパワーをくれているのだろう。青い空にうす〜い白い雲がとても美しい。追い風も俺を応援してく れる。「牧人、東京に一直線だ」と叫んだ。
12:30には小山市に入り、なんともう30.4kmを走っていた。
昼食は、なぜか導かれるように「満留賀」と言うそば屋に入った。とても品のいい店である。そばの大盛を注文した。抜群にうまい。そして、お代りをした。絶品である。そばがこんなにうまく感じるのは初めてだった。
主人も気持ちのよい方で、働くおばさん達はとても気さくで、俺に話しかけてくる。お客さんが少なくなると、この旅の事を聞かれた。いろいろ質問してくるから、ちょっと面白おかしく話す。すると手をたたいて喜んだり、真剣な顔をして聞いてくれたり、そのうち「アイスコーヒー飲んで」と大サービス。気がつくと午後2時を回っていた。「外で記念写真を撮りましょう」と笑顔のワンショット。別れの時、主人が「最後までがんばって!」と言ってくれた時は、なぜかジーンときてしまった。
14:30。牧人が「あと20km、頑張らずに行きましょう」と言う。「たまにはいい事言うねぇ」とふたりで笑った。
『マイペース、マイペース』と唱えながら走る。調子がいい。いや、よすぎるくらいだ。東京が目前と言うだけでこんなにも気分が違い、体調がよくなるものなのだろうか?
調子がいいと、知らず知らずスピードも上がる。今度はその調整に心掛けて走らなくてはいけない。心の中では『実業団の選手のようでいいな』とひとり笑う。
午後4時半過ぎ、古河市にゴールした。牧人は大声で「50.9km地点です」と喜んだ。しかし、俺の中では少し不満であった。本来地図で見ると「50km」走ると、古河市よりも少し先まで行っているはずなのだが、現実はちょっと手前。こうした事はこれまでにもちょくちょくあった。
しかし、ここまでこれた事に感謝しよう。「ヨッシャ〜牧人、家に帰るぞォ〜」。
快晴の下、快調
小山市「満留賀」そば屋
古河市 50k 走だ
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1985年10月4日(金) 宿泊先:東京自宅
古河市から越谷まで 走破距離39.8km
天気:曇り 体重:57kg 歩数:33.700歩 3時間12分38秒
総合距離:1,583.1km走破中
1.09:30古河市→(18.7km地点)杉戸町 1時間31分33秒
2.13:10杉戸町→(31km地点) 春日部 2時間30分36秒
3.14:50春日部→(39.8km地点)越谷市 3時間12分38秒
昨夜は50日ぶりに自宅に帰って少し気が楽になった。親父は退院していて、帰るとたまたま風呂に入るところ、声をかけようと風呂をのぞくと、腹から管が出ていた。ショックだった。が、元気な様子で話かけて来たので少し安心した。1歳半になる絵里花は、自宅のドアを開けた途端、一瞬ひるんだが、すぐに「 パパ〜」と言って抱きついて来てくれた。妻、清美に聞くと「毎日、ポスターに向かって、《はい、パパにおはよう》って言って、って会話してたからだよ」と、自慢げにほほ笑んだ。「そっか、ありがとう」と妻を抱き寄せた。
明けて早朝、外はまだ薄暗い中、中野坂上の自宅前に、妻清美と、牧人の彼女和子が俺達ふたりを見送ってくれた。
今日の出発地点、古河市に戻ったのは、午前8時前だった。
気が楽になった途端、左足が痛む。ひざは入念に包帯で固定した。
9:30。ランスタート。国道4号線は、首都東京に近づくにつれトラックが多くなってきた。しかも、今までと全く違う事は、車や沿道からの声援はゼロである。排気ガスが充満する国道をひた走る途中、工事をしているところで交通事故があった。車は大渋滞に陥っている。その横を走り続けるが、よく考えると 牧人もその渋滞に巻き込まれる事に気付いた。しかし、走る事をやめるわけにもいかず『渋滞を抜ければ、すぐに追いつくだろう』と走った。しかし、なかなかあの派手な車が姿を現さない。不安になる。18.7km地点まで来た時、喉は焼けるように渇き、小銭も持ち合わせない。『いやもしかして、あのボロ車が動かなくなって しまったのでは…!』と心配までしてしまった。結局、車が来るのをこの地点で待ち続けた。
30分ほど待っただろうか?我がボロ車が悠々と現れた。俺は手を振った。両手で振った。牧人が気付き、窓から片手を出して振り返す。なぜか無性に嬉しかった。牧人も心配だったのだろう。会えた事の嬉しさとホッとした感情の中、車が横に止まった。そして、牧人は忘れず、水の入ったボトルを「すみません」 と一言添えて手渡してくれた。本当にうまい水だった。
この中間地点、杉戸町の食堂で昼食にした。この食堂のおねいさん(35歳くらい?)が、外の我が車を見て驚き、俺が歌手だと言う事を知って、妙に不思議がる。『何で・・?』牧人がいろいろ説明したあと、おねいさんノリノリで有線にリクエストしてくれた。胸を張って昼食をとっていると、そのおねいさん「 有線にないって・・・!」。なんとこの場所の有線に俺の曲が入ってなかった。ただただ落胆した。『なぜ・・・?』牧人は、「レコード会社に問合せます」と真顔で言った。
急に力が抜けていた。調子が出ないし、体も重い。胃が炎症を起こしたのか、燃えるような胸焼けを感じげっぷばかり出る。それでも午後3時半「39.8km地点」、越谷ゴールにした。
なぜかふたりとも無口だった。
今後のスケジュールを考え、東京田町の行きつけの美容室「ヒーポッポタマス」に直行した。伸びきった髪をカットしたら、少し気分が変えられるかな?と。
古河市スタート地点
落胆も乗り越えて
越谷ゴール
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1985年10月5日(土) 宿泊先:東京自宅
越谷市から国会議事堂 東京ゴール 走破距離30.6km
天気:曇り 体重:55kg 歩数:24.750歩 2時間18分45秒
総合距離:1,613.7km
1.09:30越谷→千住(17.3km地点) 1時間21分50秒
2.11:40千住→国会議事堂 東京ゴール(30.6km地点) 2時間18分45秒
連日、40km以上走り続けた疲れが出ている。そりゃそうだよね。この縦断の練習の時の最高距離が30km。それが、この50日余りの中で連日40km走破は、体も抵抗するよね。
それに10月の朝の気温は低く、肌寒い事もあってか、両足首の疲れをはっきり意識できる。ひざも包帯で固定しているので、走る時リズムをうまくとれない。いや、ひざをかばいすぎるせいで、走りがバラバラになっているのだろう。
また、北海道や東北の事を振り返ると、沿道の声援がかなりあったのに、関東に入ってからというもの、声援もなければ人も見向きもしない。大都会の人の心は、こんな馬鹿な人間の事など気にせず、我が道をそれぞれが歩むことで精一杯なんだろう。
都会の喧騒の中、モクモクと走る。
やがて東京駅を左手に見て右に曲がる。やっと心がワクワクして来た。皇居が見えて来た。思えば8月14日に宗谷岬を出発して53日かけて東京国会議事堂にゴールする。なんと1,600kmもこの足で走って来た。本当によくここまで来れたと思う。気がつくと走るホームも安定して、スピードも上がっている。人間とは面 白いなと思う。だって、その時の感情、気分で体の状態がこんなにも左右され変わっていくのだからね。《病は気から》。まさにこれだね。
そして国会議事堂が正面に見えた時、親友の轟二郎がオートバイで迎えてくれた。「まこと、すげーよ・・・・!!」と何か言っているが、ほとんど聞こえてこない。嬉しさと、達成感で涙があふれてくる。二郎にグシャグシャな笑顔で答える。二郎も涙ぐんでいる。牧人を探す。しかし、牧人が見当たらない。『バーカ!何 で肝心の時にお前は居ないいんだ』。息遣いが激しくなり、国会議事堂がどんどん大きくなる。すると国会議事堂の前に事務所の鈴木専務夫妻や牧人が待っている。牧人は先に行って待ってくれていた。取材のカメラも見える。ラストスパート・・・・・!拍手。握手。そして、牧人と抱き合った。
衆議院議員の小杉隆先生の事務所で取材が始まった。エンマ・ランナーズ・週刊読売・・・etc。
なぜだか興奮していた。本当に嬉しかった。
走る国会議員で有名な小杉先生は、俺の話を楽しそうに聞いてくれる。すると先生いきなり「議員会館のトレーニング場に行ってみないか?」と誘ってくれる。「はい」と喜んで見せたが、実は心はいやがっていた。心とは裏腹に、本当に体が疲れていた。しかし、親切にトレーニング場で、いろんなストレッチやマシーント レーニングを教えてくれる姿勢は、とても好感が持てた。
すべての取材が終わり、事務所に帰ると、事務所の人たち全員が集まり、東京ゴールを喜んでくれた。やっぱりみんな心配していてくれたんだなと思うと感極まった。
東京ゴール・小杉隆衆議院議員
轟二郎・マネジャー牧人・古代
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1985年10月6日(日) 宿泊先:東京自宅
東京ライブ 銀座スコッチバンク
天気:雨 体重:55kg
中野坂上の自宅マンションの窓の外は雨が降っている。でも、なんだかとても美しく見える。縦断中の車から見た雨の風景とは全然違って見えるから不思議だ。やっぱり平凡でも我が家は落ち着く。横では1歳半になった絵里花が可愛い寝顔でぐっすりと夢の中。見ているだけで心がなごむ。妻の清美は朝食を作り始めた。
今日は、銀座で東京ライブを行う。昨夜は事務所で最終打ち合わせで遅くなったせいか、ちょっと睡眠不足。それでも気分は上々。自分の部屋に入り、ライブの譜面をチェックし、ギターの弦を張り替えた。キッチンから「パパ、ご飯だよ」と聞こえた。このノホホンとした空気に酔いしれる。今日はきっといいライブになる だろうとフッと思った。
東京ライブ会場「銀座スコッチバンク」に正午に着く。2か月ぶりに合うバンドメンバーは、笑顔が絶えない。「まこっちゃん、しまったね。それに真っ黒じゃん」とか「縦断中、どこかで、可愛いねいちゃんナンパしてたんじゃない?」とか。「本当に走ってるの?」とか。好き勝手なことを言ってくるが、それがなぜだか トゲがなく暖かく感じる。
話もつかの間、すぐさまサウンドチェックが始まり、リハーサル。牧人をはじめスタッフが会場をあわただしく動き回っている。歌いながらみんなを見渡す。すべてが俺の為に動いてくれている。鈴木専務が「準備OK」と叫んだ。そして俺に近寄り「まこと、声出ているぞ」と笑う。そう、こんな言葉をかけられるとテンションは、さらに上がってくる。
午後3時開場。予想以上のお客さんが集まってくれた。昨日東京ゴールに来てくれた轟二郎、横浜銀蝿の嵐、そして多くのファン達に囲まれてライブは始まった。
久しぶりのバンドは、最高だ。
あっと言う間にライブは終了。アンコールにキャンペーン曲「抱きしめて」を歌う。「最後まで頑張って!」「大阪に応援に行くからね」いろいろな声援が飛んだ。その中に、親友、加藤忠太郎の姿があった。
ライブ後、楽屋に加藤忠太郎がやって来た。そうあの日本航空の大事故で亡くなった「こまわり君」の葬儀に出向いた報告に来てくれたのだった。話は、本当にただただ悲しいものだった。とてもじゃないけどここに記す事は出来ない。忠は、淡々とこまわりの事を話してくれた後、最後に「お前が、こまわりの分まで芸能活 動しろよ。そして、沖縄まで絶対走れ。それがこまわりへの供養だ」と言った。こまわりは亡くなる数週間前に大々的に週刊誌で扱われ、芸人としての一歩を歩み始めていたのだった。こまわりの無念さを心に刻みつけ、忠と握手した。必ず沖縄まで走りこのキャンペーンを成功させると心に誓った。
1985 東京ライブ 1
1985 東京ライブ 2
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1985年10月7日(月) 宿泊先:東京自宅
東京 国会議事堂から横浜 生麦まで 走破距離:27.3km
天気:晴れ 体重:55kg 歩数:21.700歩 時間:1時間59分06秒
総合距離:1,641km
1.国会議事堂13:30→国道1号、第一京浜(13km地点)大森東 56分26秒
2.大森東 15:40→(27.3km地点)横浜生麦 1時間59分06秒
出発前。「ランナーズ」の勅使河原記者から実業団専属の整体マッサージ「須田絹子」先生を紹介してもらい。朝一番に須田先生のところに行く事になった。やはり沖縄那覇までの第2ステージを考えると体の調整は不可欠である。
東京に住んで10年。新宿近辺は大体のところ知ってるつもりでいた。だから小田急線の新宿近辺の駅と言う事だけで余裕であった。中野坂上から新宿に出て小田急線に乗るだけだから、30分もかからないと踏んでいた。しかし、落とし穴はあった。いつからか頭の中で、なぜか「代田橋駅」と俺は決めつけていた。が、本 当は「代々木八幡駅」の間違え。代田橋駅改札でマネジャー牧人を待つが、なかなか来ない。待ちくたびれて、ちょっと怒りながら事務所に「いくら待っても牧人が来ないんだよね」と電話するや、事務所から牧人さんは「代々木八幡駅」で心配して待っていると言う。「細かい話を聞いて、アリャリャリャラ〜!なんてこった」俺 の勘違い。
なんと40分も大遅刻して、代々木八幡にある須田絹子先生の治療院に着いた。バツが悪かったが、須田先生、ケラケラ笑い俺の失敗を流してくれた。
この先生、思った以上にユニークな人で、一発で仲良しになれた。
治療が進んでいく中、「走る」事に着いていろんなアドバイスをしてくれる。しかも、分かりやすい。『そっか、俺は自己流だったのだ』と痛切に感じていた。しかし、治療が終わると須田先生「あなたの体は、一般の人から比べても相当頑丈だよ。沖縄まで走れる事、間違いなし」とお墨付き。しかも続けて「今の体なら、 実業団の選手にもなれるかもね」と笑う。『まぁ〜それはないだろうけど、嬉しいお言葉』と受け止めながら、悪い気はしなかった。
零時半ごろ出発地点、国会議事堂に着き、さらに議員会館の小杉隆先生の事務所をもう一度挨拶に訪れた。今後の旅について一筆頂いたのだが、この時、小杉先生がが今年4月に先生自身が出た「第1回宮古島トライアスロン大会」の事を話してくれた。なんと泳いで、自転車に乗って、マラソンする競技らしい。「古代君、 もしこの縦断マラソンを完走したら、来年宮古島大会に出場するといいよ。君なら出来るから」と言う。水泳も自転車も一応得意だが、距離を聞いてびっくり。だって水泳が3k、なんと自転車は136km、その後、フルマラソンだって!!『それはあまりにおバカすぎるよ。絶対に無理だね』と思いながらも、心のどこかで『・・ ・・・でもおもしろそう!』と思う自分が・・・『でも、やっぱりやめとこ』。小杉先生には、たくさんアドバイスや勇気をいただき、本当に感謝でした。
13:30.さぁ〜出発だ。第2ステージ「沖縄那覇への旅」の始まりです。
親友「轟二郎」は今日も来てくれた。何と今日はずっと俺の伴走をかって出てくれたのだった。
しかし、おもしろいものですね。北海道、東北、を駆け抜けここまで牧人を見失う事がなかったのに、この東京で互いに迷子になってしまいました。どこではぐれたのか分からず、気がついた大森東13km地点で、とにかく俺は動いたらだめだと判断して、二郎に「悪いけどお前バイクで戻って探してくれ。俺はこの近くの公 衆電話で事務所と連絡を取るから・・!」と話し合った。
なんと長い時間、不安を感じた事か?牧人と会えたのは、1時間以上たった15:30だった。牧人は国道1号を走り、俺は、第一京浜(15号)を走るポカだった。それでも、轟二郎がオートバイを使い、事務所に電話を入れ、牧人と連絡を重ねたおかげで、何とか会えて3人でホッとした。「何と東京でお互い迷子になる なんてな」と牧人と気を引き締め、まずは横浜に向かった。
そんなこんなで走行距離は、横浜生麦まで27.3kmしかかせげなかった。帰り、はぐれた間の距離を車で測り直し、一度、東京事務所に戻り、今後の対策を打ち合わせした。「これからは、出発前、地図で地名を確認してから走る」と決めた。それだけでもちょっと安心した。
「今日は朝から、迷子の子猫ちゃんだったな」と牧人と二郎と笑った。するとその流れを変えるように二郎が「今日は牧人の誕生日なんだろ!では、これから牧人自身の主催で、牧人誕生日パーティーにくり出そう」とおチャラけた。
国会議事堂スタート前
議員会館:小杉隆先生に一筆
10 月 7 日は牧人の誕生日
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1985年10月8日(火) 宿泊先;東京自宅
横浜市生麦から小田原まで 走破距離:57.8km
天気:晴れ 体重:54kg 歩数:44.600歩 時間:4時間15分27秒
総合距離:1,698.8km
1.8:35(横浜生麦)→国道1号(19.3km地点)戸塚 1時間24分39秒
2.11:00(戸塚)→(31.8km地点)茅ヶ崎菱沼 2時間20分43秒
(カメリハの為、静岡県に移動=夜戻り)
3.20:40(茅ヶ崎菱沼)→(47.9km地点) 3時間38分27秒
4.22:30(47.9km地点)→(57.8km地点)小田原 4時間15分27秒
家族全員に見送られて東京中野坂上の自宅を車で出発した。また今日から日本縦断 第2ステージが始まる。言葉に言い表せないほどの葛藤に襲われる。今までは、自宅の東京を目指して頑張る事が出来たのが、今度は、自宅のある東京が遠のいて行くのである。やはり家族の事を考えると心苦しい。しかし、心を鬼にする。 もうやるしかないのだ。ウジウジ考えず前向きに行こうと考えた。
体調は、すこぶる快調。そして、今日は正午頃までラン距離を伸ばし、明日の日本テレビ「ズームイン朝」の出演カメリハの為に、静岡に車で向かう予定である。
まずは、横浜、戸塚、茅ヶ崎まで距離を延ばす事が出来た。31.8 km地点まで来たが体は快調であった。東京事務所からも今日は鈴木専務が応援に来ていてくれるから、気分的にも気合が入る。
牧人も昨夜の誕生日パーティーで、いいパワーを貰ったようで絶好調である。「まことさん、14時半までに静岡に到着しなければなりませんので、この辺で切り上げてください」とニコニコしている。「OK」そして車に乗りカメリハ現場に急ぐ。がしかし、車を移動し始めた途端、交通事故の渋滞に巻き込まれ、現場には一 時間以上遅れて到着した。
到着するともうカメリハの準備はすべて整っていた。カメラのクルーは静岡第一テレビの人達で、挨拶した担当ディレクターは俺の高校の後輩とのことだった。ちょっとしたことでも共通なものがあると心が溶け合うもので、遅れたことも支障をきたさずカメリハにいどむ事が出来た。
ただ、ここでこちらの大きな問題がひとつあった。つまり、俺の走っている現在の場所は「茅ヶ崎」。でも明日は「静岡御殿場」を想定しているのである。つまり30km以上後方に居ると言う事になる。
もしも、番組が静岡で流された後、その後方の神奈川を走っていたのでは、映像と矛盾してしまうし、単純にせっかくの縦断がやらせのように思われてしまいかねない。だから、このカメリハが終わった後、茅ヶ崎に戻り、とにかく、小田原までは、最低走っておかないと帳尻がうまくいかない事に頭を悩ませていた。
かくして、カメリハは、なんの問題なく終了した。しかし、その後また、茅ヶ崎に戻るのかと思うと俺自身の気分は最悪だあった。
20:00。茅ヶ崎に戻った。もちろん明日の全国放送「ズームイン朝」は楽しみであるが、やはりこれから小田原まで走る事に気合が入らないでいた。それを見抜いたのか牧人が「まことさん今日は鈴木さんがいらっしゃるので、僕も一緒に走らせてください」と言う。牧人は縦断の練習の時は、いつも一緒に走っていたの だが、この縦断本番になってからは、一切走っていない。「大丈夫なのか?」と聞くと「たまには、まことさんと一緒に走りたいんです」と。『こいつ泣かせることを言う』そんな気持ちが俺の心に火をつけたようだ。「よしゃ〜一緒に走ろう」と肩をたたいた。
20:40。ふたり歩幅合わせて走り始めた。やはり一人で走るより二人の方が、気分的には、かなり楽である。が、夜道は何かと走りずらいものである。まず、路面のデコボコが分かりずらいし、車も昼と違いかなり怖く感じる。あの恐ろしいトンネルを感じさせるのだ。それでも、牧人と俺の呼吸は合っていた。「牧人、 大丈夫か?」「はい!」大したものである。牧人が俺のペースで走る。気がつくと、なんと14kmも併走していた。しかし、どう見ても、そろそろ限界なはずである。そこは、俺には手に取るように分かる。「無理するな!」「はい・・・!」「もういいからやめな」「・・・・はい・・・!」平塚に入った頃、さすがに牧人の息は 上がり、歩くのもおっくうなほど疲れ果てていた。『牧人、ありがとう。俺の心を読み、ここまで付き合ってくれたお前に心から感謝するよ』。道端に座り込み右太ももは痙攣し、筋肉痛を起こしていた牧人が愛おしく感じた。
結局、俺は小田原まで走り、明日の朝の撮影後、帳尻を合わせることにした。なんと今日だけで57.8kmも走破していた。まぁ〜これなら何とか撮影後、帳尻つくだろう。
ズームイン朝1
ズームイン朝2
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1985年10月9日(水) 宿泊先:御殿場須走 旅館みゆき
小田原から元箱根まで 走破距離:31.2km
天気:晴れ 体重:54k 歩数:27.350歩 時間:2時間37分46秒
総合距離:1,730km
1.12:30小田原→(11.1km地点)箱根湯本 54分00秒
2.14:45湯本→(20km地点)強羅入口 1時間40分04秒
z3.16:00強羅入口→(31.2km地点)元箱根 2時間37分46秒
目覚まし時計が激しくなっている。6時半。とても眠い。昨夜は午前2時頃、布団に入ったから眠いはずである。
『ヨッシャ〜全国放送だ!』と飛び起き、気合を入れる。朝食もとらずにロケ現場に向かった。空はまさに秋晴れの快晴である。現場より2km先で車を降り、ジョギングで現場に向かった。やはり汗をかいていないとリアルでないからね。リハーサルが始まった。3回ほどカメリハを繰り返した後、本番を待つ。待っている 間もずっと走り続け汗を流していた。するとディレクターがやって来て、すまなそうな顔で「古代さん相談なんですが、古代さんの会話がうますぎるので、ちょっと素人っぽくしゃべってもらえませんか?」と言う。「素人っぽくってどんなふうに?」「・・・・・たどたどしく」「逆に難しいね」とムッとした。
8:15本番。走る俺をカメラが追い、女性アナウンサーが声をかけてくる。たった2分間の生出演だったが、何をしゃべったか覚えていないほど緊張した。つまりディレクターの思惑通りの素人だったに違いない。なぜなら終わった後のディレクターの一言が「古代さん完璧でした」と言ったからだった。『悔しかった』
放送が終わり,宿に戻り朝食をとっていた。すると旅館の女将が「古代さん面会の方がいらっしゃっています」と言う。『誰だろう?』。俺の目の前に現れたのは、高校時代の親友 横田。「おーいテレビ見たぞ」とやって来た。横田もテレビを見てなのか興奮気味に「今日の夜、お前の為に仲間が集まる計画立てたけど大丈 夫?」と。「もちろん大丈夫」と声を張り上げた。
昼前に昨夜のゴール地点 小田原に戻った。テレビではもう静岡を走っているはずなので小田原から箱根までは、テレビを見た人に気付かれないようにしようと言う事になり、なんと全国縦断のゼッケンを外した。しかし、距離は誤魔化せないので、普通のジョギング姿で箱根湯本、そして箱根駅伝で有名な宮の下までそんな 格好で走った。
宮の下の急な坂を登る手前で鈴木専務が「もうゼッケンつけても大丈夫」とOKが出て再スタートした。そして『びっくりです』。いきなり車からの応援が始まった。『なんてテレビとは凄いものなのだろうか!』箱根の山を一歩一歩走って行く。たくさんの声援が飛んでくる。そっか、このコースを大学駅伝は、同じような声 援をうけて、猛スピードで駆け抜けて行くのか!としみじみ思う。いつの間にか走りながら、自分が箱根駅伝を走っているかのような錯覚を楽しみ、そして苦しんだ。
気がつけば箱根旧街道まで走り切っていた。
さて、今夜は親友 江原宅に泊めてもらうことになった。
江原は高校時代野球部のキャッチャーで体は、大きく頼りがいのある男だ。俺とマネジャーの牧人が江原宅にお邪魔すると、そこには朝、旅館に来てくれた横田、植松、加藤、江原、そして江原の奥さんが笑顔で待っていてくれた。いつのまにか酒盛りが始まり、俺を肴に限りなく盛り上がって行く。これが青春時代の仲間な のだろう。時計が零時を差した頃、江原が「明日の夜、沼津に仲間達を集合かけているので、お前のレコードキャンペーをそこでやるぞ」と言った。嬉しいやら、驚くやら・・・・しかも、50人以上も集まるとのことだった。やはり持つべきは、友である。
そして、酒盛りは、さらに続いた。
ズームイン朝本番
箱根を駆け抜ける
元箱根を走る
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1985年10月10日(木) 宿泊先:親友 江原宅
元箱根から沼津久保まで 走破距離:23.3km
天気:晴れ 体重:54kg 歩数:19.450歩 時間:1時間56分19秒
総合距離:1,753.3km
1.11:00(元箱根)→(12.8km地点) 1時間06分53秒
2.14:00 →(19.4km地点)三島 1時間37分29秒
3.16:30(三島市)→(23.3km地点)沼津久保 1時間56分19秒
親友とは素晴らしいものだ。江原は神奈川県横須賀に単身赴任している男だ。その男が昨夜わざわざ自宅に戻り、俺を接待してくれ、なおかつ泊めてくれた。そして今日も沼津までやって来て、俺のキャンペーンまでセッティングしてくれるという。なんて友情の厚い男なんだろう。
そして朝、目が覚めると、朝食を持て成してくれる江原の奥さんとお母さんがそこに居た。ただただ感謝に尽きる。
09:30、箱根に向かって江原宅を出発した。やはり昨夜のお酒がかなり残っている。牧人が「まことさん走れますか?」と言う「大丈夫だよ…!」と言いながらも、二日酔いと闘う俺がいる。
道路は、休日のせいか渋滞していた。元箱根のパーキングで、ゆっくりマッサージをしてもらうが、やはり二日酔いは治まらない。牧人はきっと見抜いているのだろう。牧人からスタートのサインは、出なかった。
それでも11:00ランスタート。渋滞で車が連なっている中をひたすら走る。こう言う時こそ声援でもあれば元気も出るのだろうが、今日は声一つかからない。まして、飲み過ぎで胃が焼けるように痛みだしていた。
『自分が調子に乗り過ぎたのが悪い』と反省の中、休み休み走った。
三島に入る。ここは高校の時、下宿していた街である。あらゆる思い出がよみがえり、国道沿いにある相撲部の先輩(ちなみに俺は、高校時代相撲部だったのだ)西野さんのラーメン屋を見つけた。が、残念なことに休みであった。そして、その先に「三島ホンダ」の看板。ここは一級下、後輩の親父がやっているオートバイ 屋だ。高校の時は毎日のようにここに遊びに来ては750ccのバイクを借りて箱根をとばしたものだ。がやっぱり休み。がっかりしながらまた走り続ける。でも、走りながら、あの日あの時が鮮明に思い出として甦り、走る事の苦しさを忘れさせてくれた。そんな時、左足の付け根が痛みだした。いや、痛いと言うより、筋が伸び たような感じがした。すぐに立ち止まり、牧人に伝える。すると牧人は、「無理はやめましょう。それに今夜はまことさんの高校のお仲間達が集まってくれるのですから・・・!」と。「そうしよう」と頭をキャンペーンに切り替え、沼津に入ったところで打ち上げた。
さて、夜のキャンペーンを考えるとまず、風呂屋を探さなくてはならない。牧人に「まず風呂屋を探そう」と言うと「その前に楽器屋を探してマイクスタンドを買います」と言う。「なんで?」と聞くと、今日のキャーンペーンはスナックを借り切ってくれたようなのだが、そこにはマイクスタンドがないと言う。楽器屋は高校時代よく通ったので覚えていたし、そう言えば沼津駅北口のサウナも知っていたので「牧人、楽器屋に行った後、風呂屋じゃなくサウナに行こうぜ」と誘った。すると牧人は俺の顔をのぞきこみ「二日酔いだからですか?」と。「バーカ」とかわしながら、心で『ピンポーン』とうなづいた。
午後7時30分。
高校時代の仲間達10人が中心になって、駅前のスナックに人をかき集めてくれていた。煙草の煙がムンムンしている中、小さなステージに上がると、仲間が拍手で迎えてくれた。
しかし、歌い始めてもガヤガヤしてなかなか乗り切れない。すると江原がいきなり大きな声で「お前らちょっと静かに聞けよ!」と声を張り上げてくれた。嬉しい気遣いである。そして、みんなが静かになり、徐々にひとつになり、最後はノリに乗ってくれた。
大拍手の中キャンペーンは終わった。江原に「サンキュー」と言うと「ごめんな。みんなこう言うライブ慣れてないから・・・!」とまたも気遣ってくれた。
嬉しい事に、レコードはかなり売れた。サインもポスターに書いて渡すとみんな喜んでくれた。昔の面影を探しあぐねるほど、年を取った奴もいたが、気持ちの方は、あの《青春時代》のままだった。江原、植松、加藤、横田、尾崎、かずお、あつし・・・ありがとう。高校を卒業して12年。また、友の友情を確認したひと時 だった。
帰り、車の前に来た植松が、「今日は俺の家に泊れよ」と笑った。
沼津でのキャンペーン
箱根を下る
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1985年10月11日(金) 宿泊先:親友 植松宅
沼津久保から蒲原駅前まで 走破距離:35.3km
天気:雨 体重:55kg 歩数:20,450歩 時間:2時間49分24秒
総合距離:1,788.6km
1.10:20(沼津久保)→(14km地点)富士入口 1時間08分32秒
2.12:30(富士市入口)→(26.5km地点)富士市柚木 2時間09分07秒
3.14:20(柚木)→(35.3km地点)蒲原駅前 2時間49分24秒
朝起きると体中が痛い。アキレス腱の上、ふくらはぎ、腰、そして、右太もものリンパ腺・・・疲れがたまっている感じだ。箱根越えが堪えているのだろうか?いや、連日の仲間の厚い接待に溺れているからだろうか?植松邸の2階から1階に降りるのにひと苦労といった状態だ。
しかし、植松には心配かけたくなかったので、起きるや早々と出発することにした。家を出るとき、植松の家族に見送られ、植松の家族の温かいおもてなしと、植松の友情に感謝して、スタート地点へと急いだ。
いつものように車の中でマッサージを受けていると、車をノックする音がした。ゆっくり振り向くとそこに親友 横田が居た。「どうした?」「いや、太田が(俺の本名)心配でさ・・・!」と。「近くに居ると思うと居ても立っても入れなくて・・・!」。どこかで同じセリフを聞いた覚えがある。そうだ、陸前高田の大友 さんもそう言って来てくれたけ。それに、あの日も雨だった。霧雨に濡れた横田の姿が、むちゃくちゃ嬉しく写った。
10:00。横田の複雑そうな笑顔に見送られて、雨の中をスタートした。左足の太ももの付け根がグキッという感じで痛む。が、横田に精一杯の笑顔を返し、両手を振って別れた。ありがとう。この3日間、ずっと俺を心配してくれた横田との別れは、本当につらかった。
楽しい日々が続くと、とてもやるせない時間が襲ってくる。でも、歯を食いしばって走る。雨は容赦なく俺を痛めつける。雨に濡れた体が冷えて、体の痛みが激しくなった富士入口で休憩した。
車の中で、朝、植松のお母さんが手渡してくれたおむすびをほうばる。とてもおいしい。涙が滲んでくる。ふっと、お袋の事を思い出した。
実は、黙っていたが、この2月に両親は静岡での商売に失敗していた。身内の罠にはまったと理解していた。そして5月に両親は東京に住みつき、今は父とふたり病気と自分達の人生の生き方と闘っている。本当は心の中にしまっておこうと思った事なのだが、植松のお母さんのおむすびがあまりにおいしくて、自分の母親と 植松の母が、いつの間にか重なってしまっい涙が流れる。
『そうだ、両親の為にも、このキャンペーンを成功させて、今後の生活にゆとりが持ちたい』と気合を入れ、また外に飛び出した。
霧雨は続いていた。体は冷え、節々が痛む。そんな中、腹痛を起こした。周りを見渡すがトイレは見当たらない。次のガソリンスタンドまでも、もたないだろう。仕方なく海に通じる草むらに入り込み、雨の中で用を足した。北海道では、よくやっていた事だった。
午後3時。牧人が車を止め、ストップの合図を送って来た。「どうした?」「さっき、電話で静岡新聞の取材を取りましたので、これからすぐに静岡市に向かいます」と言う。牧人もこのキャンペーンに賭けている姿勢が俺に伝わってくる。35.3km地点。この雨の中にしては、上出来と判断した。
さて、雨の中を静岡市に向かい、静岡新聞社の取材を受けた。取材が終わったのは午後5時であった。
夕食をと考えた時、静岡市内には、親父の妹にあたる叔母が料理屋を営んでいる事を思い出した。心にずっとしまっておいた親父の倒産の真相を叔母は知っているかもしれない。そう思ったら、どうしても尋ねたくなった。
でも、行かなければよかった。
聞いているうちに、酒を飲んだ。いや浴びた。悲しくて、やるせなくて、あまりに激しい怒りがこみ上げた。なぜなら父を陥れたのは、親父の弟であり、母の兄の仕業と確信したからだった。次第に自分を見失い、その挙句、牧人に八つ当たりした。
牧人ごめんな。今日は最低な俺だった。
親友 植松の家族とーン
沼津原駅前を走る
静岡新聞の取材中
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1985年10月12日(土) 野宿:静岡市内の地下駐車場
蒲原駅から静岡市安倍川まで 走破距離:30.2km
天気:晴れ(雲多し) 体重:56kg 歩数:25.850歩 時間:2時間26分24秒
総合距離:1,818.8km
1.12:00(蒲原駅)→(10.8km地点)興津 53分39秒
2.14:30(興津) →(22.8km地点)静岡市 1時間50分07秒
3.16:00(静岡市)→(30.2km地点)安倍川手前 2時間26分24秒
なんと気分の悪い朝だろう。牧人は昨夜買った弁当を手もつけないで寝ていた。『本当に、最悪な夜だった』。しかも、寝ているのが、地下駐車場で、とても暗い。何時だろうとライトをつけ、時計を見ると「8:40」。静岡市長との約束が9:00だったのを思い出して飛び起きた。牧人は怒っているのだろう。俺と目を 合わさない。俺が悪いのは分かっていたが、なぜか謝れずにいた。
静岡市長には、予定通りの時間に会え、一筆頂いた。市長は市長らしくない楽しい人物であった。
市役所を後にして、蒲原駅前に戻る途中も、牧人は黙っていた。「牧人、昨日はごめんな」とやっと言った。すると牧人は「・・・・まことさんの苦しい思い,わかりますから・・・」と。『・・・本当にごめん』と言葉を飲んだ。
蒲原駅の空は雲がやたらに多いが、汗ばむほど暖かい。東北の気候を考えると静岡はやはりとても気温が高い。連日の酒の飲み過ぎで、体調も心も沈んでいた。
正午のサイレンがちょうど鳴った時、走り始めた。左足が痛む。走ると力が抜けたようにグキッとなる。何とか様子を見ながらゆっくりと走る。すると昨夜の事が、頭の中でまた鮮明に思い出されてくる。「・・・・・!」どうしようもない。何とか忘れるようにスピードをあげるが、変わらなかった。
体の痛みと、心の痛みがひとつになり、とうとう歩いてしまった。興津まで来た時、サポーターと冷却スプレーを買うため、スポーツ店を探していると「興津スポーツ」と言う看板を見つけた。そしてそこに寄るといきなり店の方達が「新聞読んだよ」と大騒ぎになった。腐った心を癒してくれるようなノリのよいテンション に、いつの間にか能天気に話し込んでしまった。『ありがとう。なぜか、心が切り替わったようです』。牧人もいつの間にか、いつもの牧人に戻っていて、少し安心しました。
昼食後、少し仮眠してから、また走りだした。ところが今度はいくら進めども牧人が見つからない。『もしや、見捨てられたのかも…』と思いながら走るが、やはり見当たらない。のどは渇き、心も心細くなった時、車が前方に止まっていた。ホッとした。「どうした?何かあったのか?」「東京の事務所といろいろ打ち合わ せたりしていたら、まことさんを見失い、ここでどうしようか迷っていました」と言う。そうか、お互い心細かったようだ。なぜか、そんな事が、昨夜の溝を埋めてくれたように思えた。
安倍川まで来た時、空は真っ暗になった。夏と違って日が暮れるのは早い。左ももの心配もありここで走るのをやめた。そして、風呂屋は見つける事が出来ず、1900円も払ってサウナに入った。そのサウナで服を脱いだ時だった。左足で立つ事さえ出来ないほど痛みが走った。
静岡市長さんと
興津スポーツ店
静岡新聞
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1985年10月13日(日) 野宿先:静岡市内オートスナック駐車場
安倍川から金谷町まで 走破距離:32.1km
天気:強風・雨時々晴れ 体重:56kg 歩数:29,750歩 時間:2時間50分21秒
体温:36.2度 総合距離:1,850.9km
1.10:00(安倍川)→(14.5km地点)藤枝 1時間18分02秒
2.12:30(藤枝仮宿)→(20.2km地点) 1時間49分32秒
3.15:10(20.2km地点)→(32.1km地点)金谷町 2時間50分21秒
白い雲の塊が青い空を猛スピードで駆け抜けている。かと思うと、どす黒い雲が青空を隠す。強風が吹き荒れ、しかも悪い事に、向かい風なのだ。左ももの付け根は、今日も痛みを爆発させる。『雨にも負けず、風にも負けず、痛みにも負けずだ』。
しかし、痛みが不安を膨らませる。だから、極端にゆっくり走った。2kmほど進んだ静岡市丸子の辺りで激しい雨に見舞われた。強風、向かい風、雨に加えて足のアクシデント。、まさにトリプルパンチと言う感じである。台風のような雨と風に、今度は上り坂が重なる。シューズは水浸しで、足がシューズの中で動き気持ち が悪いし、マメができる事も怖い。雨はどんどん強くなり針のように顔に突き刺さる。トンネルは怖いが、今日はトンネルに救われたと感じる。そして抜けた。「えええええ〜!」なんと晴れて青空が広がっている。「うそだろ!」と叫ぶが、しばらくすると雲の塊にまた出遭い、また雨に襲われる。今日の天気は狂っている。天気 が変わって行く度に、左足の痛みに耐えかねている。体も雨で冷え切っていた。
14.5km地点 藤枝で、あまりの体温の低下に体が震え休憩を取る。頭と体温のバランスを調整するために缶ビールの小を1本飲んだ。少しあったまった気がする。そして仮眠した。
牧人は、俺の仮眠中にコインランドリーを探し回っていたらしい。しかし、この街にはコインランドリーが見当たらず、あきらめて戻って来ていた。車の中の洗濯物はたまりにたまって、悪臭さえ漂わせている。実にクサイ。
15:10。再スタート、依然として猫の目のように変わる天候と向かい風に悩まされていた。
そして、大井川を目前にした時だった。1台の車が近付き「古代君!」と呼びかけられた。なんと、以前お世話になった、FM静岡のディレクター牧田さんだった。「どうしてここに居るのわかったんですか?偶然??」すると「新聞で読んで、大体このあたりを走っているのかなと思ってね」と。驚くよりも、嬉しさが込み上 げてきていた。「浜松に着いたら、連絡してね。番組に出てもらいたいから!」と言ってしばし伴走した後、去って行った。
金谷に入ると、長い上り坂がある。心は元気になっていたが、左足の痛みは、耐えるに耐えられない状況に陥っていた。この足では、とても走る事は無理と判断。上り坂手前でやめることにした。
牧人と話し合い、明日は、一日休日と決めた。
静岡市丸子の激しい雨
大井川を渡る
大井川を渡る2
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1985年10月14日(月) 宿泊先:大須賀町 古川宅
休養日 原稿・はがき書き
天気:曇り時々晴れ 体重:56kg
久しぶりにゆっくり寝た。
おば(母の妹)の家に泊めてもらって居たので、気を遣わなかったからだろう 。おばは洗濯物を洗ってくれ、仕事に出かけて行った。
朝食を食べ終え、洗濯物を干して、はがきを書き始める。北海道、東北で世話になった人達の顔が浮かび、あの日あの時がよみがえる。ついこの間の事なのに、遠い昔のようにも思え、また、懐かしくも鮮明にいろんな事が思い出されて、時間を忘れペンを走らせた。気がつけば、夕方近くになっていた。
この街は、俺が中学3年まで過ごした街で、今年1月までは、我が実家があったところである。しかし、親父の倒産後は、抜け殻になった実家が息を殺した感じで残っていた。街の人達や友人達は、我が家族に同情的で、俺がこの街に入っても、みんなが優しく迎えてくれていた。
「そうだ牧人、墓参りに付き合ってくれるか?」「もちろんです」「じゃ〜お花とか線香を調達しに行こう」と街に連れ出した。もともと小さくても城下町であったため、街並みは、美しい。小さい頃はこの家並みを見ながら通学した事を思い出し、牧人に語りかける。幼馴染の悪友達がここにも居る。同じ年のボーちゃん、 タニ、そして一級下でもいつも俺達にくっ付いてきたシゲ。この3人は一生の友と思っている。「今日は、俺の兄弟以上の仲間を紹介するからな!」「怖いですね。まことさんの仲間だと、かなりの暴れん坊さんたちですか?」「・・・・まぁ〜ね」と俺の心は上機嫌であった。
墓参りで和尚に会った。和尚は、真っ先に親父たちの事を聞いて来た。「元気で、暮らしてます」と誤魔化した。が、どこからか情報が入っているのかまじめな顔で、今後の事を語り続けた。そして、「親孝行をしなさい」ときっぱり言われた。和尚もかなり心配してくれてたようで、俺の知らない細かい事まで気遣ってくれ た。それも、この和尚は、俺の子供の頃の寺小屋の先生でもあったので、実に会話がストレートだった。
ありがたく心に言葉をしまい込み、寺を出た。
階段を下りる途中、左足太ももがまた痛み出し、歩く事も苦痛に感じる。『いや、きっと今日の墓参りでご先祖様が守ってくれるだろう』と心に念じた。
夜、ボーちゃんの家に、タニ、そしてシゲが訪れて来て、久々の幼馴染の顔ぶれで楽しい時間を過ごした。小学校高学年の時、部活を選ぶ時があった。当時、小学校5年生。男子は、野球、卓球が人気であったが、ある夜、ボーちゃんから電話があった。「たかちゃん(俺の愛称)合唱部に入ろうぜ」と。この頃の合唱部は、 ほとんどが女の子ばかりなので、男子からは、幾分白目で見られた。しかし、俺も即答「いいよ」と答えた事を覚えている。入部した時、合唱部の男子は、俺とボーちゃんふたりだけだった。
そんな話や俺がスター誕生に出た時の話、デビューした時の話、今回の日本縦断の切っ掛けの話なので盛り上がり、楽しい時間が流れて行った。今日は、ボーちゃんの家に泊めてもらうことになった。いつの間にか、心は本当に元気を取り戻していた。
デビュー当時:古代まこと
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1985年10月15日(火) 宿泊先:大須賀町 柴田登宅
金谷町から袋井市まで 走破距離:24.1km
天気:晴れ 体重:56kg 歩数:22,350歩 時間:2時間08分36秒 体温:36.1℃
総合距離:1,875km
1.10:00金谷町→国道1号(15.1km地点)掛川 1時間21分55秒
2.12:15掛川 →(24.1km地点)袋井市 2時間08分36秒
困ってしまった。左足の状態が良くない。足を付くのも痛いくらいだ。
子供の頃、これから登る「日坂」を父の車から眺めた事がある。それはそれは険しく、広い坂と認識していた。だから余計に心がめげている。
10:00。「日坂」を登り始めると、案の定、左足全体に激痛が走った。変なバランスで走るためか、左ふくらはぎがパンパンになり血管が切れてしまうのではないかと思うほど張っている。気休め程度でもサポーターを付けただけでも気持ちは少し変わった。
遠い昔、親父がこの坂を車で運転しながら、俺に『男は、こうであれ・・・・』とうんちくを言っていた事を何となく思い出した。痛みと闘いながらも、懐かしいいろんな事がよみがえりはじめ、痛みを忘れるネタに出来た。しかし、子供の頃に思った「日坂」と、今走る「日坂」は大きく違っていた。気がつけばあっと言う 間に頂上に着き、ゆるやかな下り坂が飛び込んできたのだ。天下の箱根や東北の山々を超えたこの体には、今や「日坂」は短い坂にすぎなかった。
しかし、左足は、つま先までしびれ始め、前に進む事が出来ないほど心身を痛めつけていた。
やっと牧人の車が待っていた15.1km地点にたどり着き、その旨を牧人に告げた。「取りあえず、自分で処置するよ」と車に入った。車の中でパンツを脱ぎ棄てる。スッポンポンの状態で大事なムスコを避け、左足の付け根から太ももに掛け丁寧に薬を塗って行く。触っただけでも痛みが走る。本当に不安である。そして、左足 の付け根から、太い包帯で固定し、その上からランニングパンツをはいた。
そんなところに、昨夜世話になった幼馴染のボーちゃんが家族を連れて応援に来てくれた。
また、一昨日応援に来てくれたFM静岡の牧田さんの出演願いもあり、本日14時半までに浜松市に行かなくてはならないので、あまりゆっくりとしては居られない。が、ボーちゃん達の応援で気分的にも切り替える事が出来たようだ。そしてまた走り始める。痛みはあるものの、何とかごまかす事が出来た。なんとか50分弱走っ た袋井市で日程を終了した。
さて、あわてて浜松市に移動しようとするが、着替えと治療に手間取った。左足があまりに痛み動けなくなったのだ。それでも痛みをこらえ、浜松、遠鉄名店ビルスタジオに向かった。スタジオに入ったのは、ギリギリ14:15だった。
すぐに本番になり、いきなり牧田さんの指示でギター一本でキャンペーン曲「抱きしめて」を歌った。しかし、歌っている最中にも左足の痛みは治まらず、脂汗をかくほど悪化していた。が、番組内ではアナウンサーのテンションの高さもあり、ものすごく盛り上がり、リスナーからもたくさん応援電話が入りった。そして、 番組は順調に終わった。
番組終了後、牧田さんが「古代君、いい感じだったよ。だからこれから週一回電話で、その時、その居る場所から公衆電話で生出演しないか?」と言ってくれた。「もちろんです」と言い、牧人の顔を見ると、牧人もうなずいていた。それより今、一番の問題なのは、この左足の激痛であった。
牧田さんの知人の紹介で、浜松市郊外の「みのる整形外科」に急いだ。しかし、院長は軽く触るだけで、たいした治療もせず「大丈夫、明日も走れるようにしたからね」と簡単に言った。『ほんとだろうか???』と疑った。
幼馴染 柴田登の家族と
FM 静岡 生放送中
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1985年10月16日(水) 宿泊先:浜松三井アーバンホテル
袋井市から浜松篠原まで 走破距離:33.9km
天気:晴れのち曇り 体重:55kg 歩数:31.600歩 時間:2時間59分49秒 体温:36.7
総合距離:1,908.9km
1.11:30袋井市→国道1号線(12.2k地点)豊田町 1時間06分28秒
2.14:30豊田町→ (23.7k地点)浜松市 2時間07分01秒
3.16:40浜松市→ (33.9k地点)篠原 2時間59分49秒
昨夜はあまりに足の痛みが激しいため、牧人が気遣ってホテルを取ってくれた。そこにFM静岡を聞いてくれた浜松の高校の時の仲間(山田、山田の弟、鈴木、白尾、そして浜北市から祝田妻子)が突然、なんとわざわざ訪ねてくれた。本当に仲間とは嬉しいものである。そして久しぶりの話に時間を忘れ、思い出話に花を咲か せた。が、その一方で明日からの縦断を心配するもうひとりの自分も居た。
朝。やはり足の痛みは変わらなかった。『みのる整形外科の先生はウソつきだった』
しかし、ひとつの救いは、静岡の気候がかなり暖かい事だ。東北では9月初めにジャンバー2枚を重ね着していたが、今日の気候は初夏を思い出させるような暑さだ。しかも風もなく爽やかな暑さなので、最高の気分であるし、痛みも和らいで感じる。
11:30。今日も走りはじめた。痛みはある。しかし、昨夜の仲間達の楽しい語らいを思い出しながら走ると少し気がまぎれた。それに、昨日会えなかったが、松浦夫妻(中学の時の掛川市の友)からも連絡があり、国道1号線を追いかけて会いに来てくれると言うことだった。だからどこで遭遇するのか楽しみで痛みを誤 魔化し走っていた。
ただひたすら前を向いて、走る。時々「頑張ってね」「新聞見たよ」なんて応援が、心の支えになる。その時、突然「おぉ〜まさか、本当に走ってるなんて思わなかったよ」と声がかかった。見た事のある顔「神谷君?」「そうだよ」。なんと中学の時の同級生が俺を探してバイクでやって来てくれたのである。「新聞見て、 お前がそんなに頑張ってるなら応援に行かなきゃと思ってね」と言う。ちょうど足の痛みに耐えかねたところだったので、ナイスな登場劇だった。しばし話をして「成功祈ってるよ」と言って帰って行った。
ちょっとした出来事に心が救われ、心が元気になり、また走り始める。しかし、また現実に押しつぶされそうになる。それは、計画の日程よりも、もう丸一日遅れになっているこのスケジュールだった。もし日程通りに進まないといろいろ支障をきたす。たとえば、牧人が取って来ている取材やラジオが次々に遅れる、またキ ャンペーン場所やレコード店周りにも問題が出てくるのである。こんなに不安を覚えたのは縦断以来初めてである。だから無理を承知で走り続けるのである。
天竜川を渡るとき、左足の痛みはピークをむかえた。はじめて痛み止めを飲んだ。少し休むと痛みが治まって来た。そしてまた走る。天竜川から3km程行ったところだろうか?歩道橋の上から5〜6人の中学生らしき少女達が、大きな声で「頑張れ、頑張れ」と何度も声をかけてくれた。たったそれだけの事なのに、驚くほど 元気が出て来た。我ながらあきれるほど単純である。すると、心にも余裕が出てきた『松浦達はいつ来るのだろうか?』と心はそればかりを楽しみにする。牧人は、何度も松浦家に電話を入れてくれているようだ。しかし、なかなか会えないでいた。
夜のとばりが迫る頃、靴と左腕に夜行反射テープを張り付けて、走り続けていた。痛みは我慢できる程度であったので、走り続けていた。が、とうとう松浦達とは会えずにいた。牧人曰く、松浦達は国道1号を探してくれたようなのだが、俺達は新しいバイパス国道1号を走ってしまった。『あの時、左じゃなく、右に行ってい たら会えたのに』と。あの分岐点でのちょっとした決定で結果は大きく変わった。人生もそうであろう事を思い悔しく思った。
浜松市篠原付近まで差しかかった時だった。思いがけない出会いになった。ひとりの老人がジョギング用のランニング姿で近寄って来て「頑張れ、頑張れ」とゲキをとばしてくれるではないか。そして5分ほどすると、今度はバイクに乗って再び近づいて来て、また応援してくれる。それが、本当に大きな声で、必死で応援し てくれるのである。
ちょうどゴール予定地にしようと思ったので、走るのを止め、その老人といろいろ話はじめてしまった。名前は「小沢貞次さん、72歳」と言う。貞次さんは、「篠原健康会」というグループに籍を置いていて毎日走っていると言う。よもやま話と言うやつなのだが、しゃべっているうち、「お兄さん達、今日我が家に泊らない か?」と言ってくれた。「お風呂もあるし、夕食も御馳走するよ」と。いやはや、日本とは本当に平和でいい国である。見ず知らずの俺達にそんな事を言ってくれる老人が・・・・。『いいのだろうか?』しかし、本当に神様のように思え、このハプニングに甘えてしまうことにした。これも縦断のおもしろさなのだろう!
天竜川を渡る
突然の出逢い。小沢貞次さん
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1985年10月17日(木) 宿泊先:浜松市篠原 小沢貞次宅
浜松市篠原から豊川市まで 走破距離:43.7km
天気:雨のち晴れのち曇り 強風向かい風 体重:56kg 歩数:39.000歩
時間:3時間41分50秒 総合距離:1,952.6km
1.9:00篠原→国道1号線 (12.6k地点)新居 1時間01分23秒
2.10:30新居→(19.2k地点)白須賀 1時間35分43秒
3.13:25白須賀→(33.9k地点)豊橋市 2時間46分08秒
4.16:40豊橋市→(43.7k地点)豊川市 3時間41分50秒
小沢貞次さんの家で目が覚めた。外は雨だった。このお宅にも嵐が吹き荒れているようである。どうやら我々が泊めてもらった事で、家の中が荒波が立っているようだ。
昨夜、息子さんのお嫁さんが家を出て帰って来なかった。ここの子供達も、俺と牧人を嫌な目で見ている。牧人も感じているらしく「まことさん、やはりご迷惑かけたようなので、早くおいとましましょう」と言う。俺もうなずいた。しかし、貞次さんは、笑顔を振りまき「おはよう。顔を洗ったら、朝ご飯食べて行ってくださいね」と。朝食はおばあちゃんが俺達のために用意してくれていた。丁重に御礼を言って、小沢宅を後にした。
スタート地点に戻り、後味が悪い中、体操をしていると、そこにまた、笑顔の小沢貞次さんがやって来た。「どうしたんですか?」「あんたを応援したくてね」と。なんと貞次さんが出場したマラソンのゼッケンをたくさん縫い合わせた旗を持って得意満々での登場だった。そして、バイクに乗り、先まで行っては、降りてその旗を振り。大きな声で「古代まこと選手、頑張れ!」を繰り返すのである。『俺はいつから選手なんだろうか?』と笑ってしまう。が、あまりに素朴で温かい応援に、足の痛みも忘れて、貞次さんの演出を楽しんだ。しかし、バイクで追い抜いて行く貞次さんの後ろ姿は、ヨタヨタと走って行くので危なっかしい限り・・・!それ でも貞次さんの笑顔を見るとまた何も言えず、先へ先へと進んで行くのである。気がつくと12.6km地点の新居町までやって来ていた。「貞次さん、もうこの辺で大丈夫です」と言うと、ちょっと悲しそうな顔で「そうだね・・・・」と答えた。何とも言えない温かいぬくもりを体いっぱい感じていた。
貞次さんと別れてから、風が急に強くなり空が曇り始めた。向かい風の中を走りながら『貞次さんは、神様だったかもしれない』と思った。帰り際「交通事故に気をつけてな」と言う言葉が、妙に頭に刻み込まれていた。貞次さんが、去った後の左足の痛みは、急に凄味を増していた。しかし、とにかく先に進まねば・・・・ !
白須賀で昼食を取り、ちょっとした駐車場で休んでいると、斜め前のおばさんに「あんたらここでなししている。商売の邪魔だよ!」と怒られた。「すみません」と言い、すごすごと出発である。貞次さんの温かさに比べて、この冷ややかな態度、悲しくなるほどだ。同じ人間なのに、この違いはどこから来るのだろうか?こ のあと、豊橋市長にも会えず、中日新聞の取材も形だけのもので、寂しい気持ちの連発だった。
夕方になると、さすがに寒くなった。節々の関節がちくちく痛い。だが、日程より一日遅れているため、そんな事は言っていられない。向かい風は依然と強い。苦しい。豊橋を過ぎた辺りで、夕焼けに出くわした。真っ赤に燃えていてそれは美しい。貞次さんを思い出した。心和らいだ自分が、遠い夢の中だったような気がし た。心が震えた。それでも、ただ前に進む。なぜだかたまらなく悲しく涙が流れた。
神様・小沢貞次さん
神様の応援
夕陽に包まれて
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1985年10月18日(金) 野宿先:豊川市パチンコ駐車場 国道1号線
名古屋キャンペーン 東海ラジオ・CBCラジオ・・名古屋市内キャンペーン
天気:曇り 体重:56kg
とても寒い朝である。
左足の痛みの為、やはり日程が徐々にずれてきた。本来なら名古屋に居るはずが、まだここは豊川市である。何と60kmも遅れてしまっている。つまりもう2日間の狂いが出ていることになる。一歩でも先に走り進みたいが、キャンペーンの日程をずらすわけにはいかない。結局、今日は朝6時半に起床して、車で名古屋に午前7時半に向かうことにした。この車で移動して、また帰ってくるロスが、また走る日程を狂わせていくのであろうが、しょうがない。
とにかく午前中の早い時間に、名古屋のビクター営業所に着かなくてはならない。今日はかなりのキャンペーンが組まれているので、打ち合わせもしっかりしていないとまずい。
11:00、ビクター営業所。11:30、CBCラジオ到着。11:45、本番。
本当にあわただしい。だが生放送は疲れがあっても、とても楽しい。縦断のエピソードを交え、キャンペーン曲のPRもうまくこなしている。
本番終了後、昼食を交えて、ビクター営業所の人達と打ち合わせ。午後3時半から東海ラジオの生放送に出演する。しかし、楽しいと言えども、心身共に疲れていた。本番では、明るく元気な自分のキャラクターを演出していかなければならない。それが、時に苦痛になる。まして、公開放送に出て歌う場面では、ジョギング姿が衣裳になるので、自分が滑稽にさえ思う時がある。しかし、そんなことを考えてはいられない。曲をPRするには、この恰好が今は最高であることは、自分自身が一番知っている。
本番が終わり、ビクター名古屋営業所の城戸さんが「古代さんて、本当に面白い人ですね」と「それに、話の切れがいい」と言う。なんだか他人事のように、聞いていた。『俺疲れてるんだよね』と言いたいが、そうもいかず、ただ「有難うございます」と言うにとどまった。「そうだ、古代さん、有線の名古屋南営業所の女性を覚えていますか?」という。以前名古屋の有線に挨拶しに来た時に気の合った方だとすぐに思い出した。「覚えてますよ」と答えると「藤本さんという女性なんですが、電話をかけてあげてほしいのですが・・・!」と言われ、電話番号をもらった。この4月、有線に挨拶しに来て「私この曲、応援します」と言ってくれた藤本美紀さんである。さっそく南営業所に電話をかけると彼女は電話口に出た。ありきたりのあいさつの後「きのう、古代さんの《抱きしめて》をかけたら、きょう名古屋に来ると聞いたので・・・・」とまくし立てられた。でも、本当にうれしいまくし立てられかたで、いつの間にか、「OK時間見てそちらにもお邪魔します」と約束してしまった。たとえどんな事であろうが、歌手として名前を覚えてもらい、なおかつレコードキャンペーンの曲《抱きしめて》を有線の方が応援してくれていることは、歌手冥利に尽きるとおもった。
やはり南営業所に行ってよかった。藤本さんはじめ3人の従業員の方が俺を迎えてくれて、これからもこの曲を応援してくれると言ってくれたのである。うれしいことである。さて、今日の夜は、名古屋キャンペーンが6箇所もセティングされている。まずはホテルに入り、シャワーを浴び、ランナーではなく、歌手として自分自身を切り替えた。
18:00。ホテルからギターを持って出かける。マネージャー牧人も大変だ。
マイクスタンド、レコード、カセットテープ、色紙、ポスター、・・・etc、を持ち歩く。ステージでは、最低3曲から5曲で構成して、レコードを買ってもらい、有線にリクエストを頼んでゆく。しかも、ここでも衣装は、ジョギング姿である。盛り上がる店、ガヤガヤとなかなかうまくいかない店、それは心身ともに鍛えられる空間である。よかったとか、悪かったとか関係なく、次の店から次の店。そしてまた次の店。まるで演歌歌手気分。しかも、時間通りにはいかない。電車を使って、またタクシーに乗るが、道路が大混雑で、逆に遅れが出る。牧人は公衆電話に飛び込み、時間調整。やっと間に合った店でも、始めていくばかりの店なので、終始まごつく。そんな状態を繰り返して、やっと終わったのは午前2時を過ぎていた。
夜のキャンペーン
車でのサイン
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1985年10月19日(土) 宿泊先:名古屋市ライオンズホテル
豊川市から岡崎東名入り口まで 走破距離:21.5km
天気:晴れ時々曇り 体重:55kg 歩数:19,800歩 時間:1時間55分14秒 体温:36.4度
総合距離:1,974.1km
1.14:40豊川市→国道1号線(21.5k地点)岡崎東名入り口 1時間55分14秒
眠い。無茶苦茶眠い。ベッドの時計を見ると9:40。昨夜は、ホテルに帰り寝たのは午前3時を回っていた。「やばい!」と飛び起きた。今日は午前11時に名古屋市長と会う約束をしていたのだ。シャワーを浴び、髪を整え、朝食は取ら
ずに、マネジャー牧人共にホテルを飛び出した。しかし、こうゆう時に限って、道路は混雑しているのである。ホテルを出てすぐに名古屋市内は車で大混雑していた。それでも何とか間に合いそうな時間に市役所についたのだが、今度は、駐車場の入口がわからない。というより、一方通行とUターン禁止が多くまたそこで時間をロスしていく。焦りに焦って着いたのが、時間ぴったりで、体の力が抜けた。
その割には、市長との面会はあっけないもので、かなり物足りないものであった。それでも市長の一筆は、今の俺にとって日本縦断の証明書みたいなものだから、粗末にはできない。
さて市役所を出たところで、今日の予定を牧人と打ち合わせした。まずこれから、ランスタート地点の豊川市まで戻らなくいてはならない。そして今の遅れは、60kmもあるので、なんとかその距離もできるだけ長く走り、帳尻をあわせていきたい。が、しかし、今日も名古屋でレコードキャンペーンがあるので、どんなに遅くても、午後7時までにはライオンズホテルに戻らなくてはならない。車の移動時間も計算すると一刻も速く行動しなければならない。気分は滅入っていた。それでも「よし、戻ろう」と車を走らせた。
名古屋市街から東名に戻り、豊川インターへ。国道151号から国道1号線に入ってランスタート地点に着いたのは、もう午後2時半を過ぎていた。時間を考えて、準備体操もそこそこ、ランスタートした。
しかし、そんなに甘くはない。走り始めた途端に、左太もものリンパ腺の上に激痛が走った。天を仰ぐ。『どこまであなたは、俺を痛めつけるのですか?』。心の中は焦りと、不安と絶望にあえいでいる。『もう最後の手しかないのか?』車の中で、少し悩んだが、今日の予定を考えると、少しでも早く、限りなく名古屋に近づきたかった。そして、痛み止めを手にした。
痛みは少し和らいでいた。心の中は『どうしてここまでして走らねばならないのか?』と心の中で闘っていた。それでも、歯を食いしばって前に進む。移動時間を逆算した牧人が、午後5時、岡崎東名入り口で俺を止めた。
車で移動する中、今日のキャンペーンの場所や曲目を確認する。『歌うことも、走ることも大好きなのに、今はこの場から逃げ出したいと思う自分がいた』。
左足太ももの激痛
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1985年10月20日(日) 宿泊先:名古屋ライオンズホテル 1131
岡崎東名入り口から名古屋市 熱田神宮前 走破距離;36.8km
天気:曇り 体重:55kg 歩数:32.200 時間:3時間01分01秒 体温:36.4
総合距離:2010.9km
1.11:15岡崎市東名入り口→国道1号(19.1km地点)刈谷市 1時間31分32秒
2.18:00刈谷市 →(36.8km地点)熱田神宮前 3時間01分01秒
ホテルから眺める名古屋の空には、部厚い雲が広がり、風が強そうだ。昨夜のキャンペーンも深夜になった。ぼんやり外を眺めながら、ストレッチをゆっくり、入念に行う。左太ももは、少し楽になった気がする。
ぼんやりしながらサンドイッチを3枚ほど食べた。
名古屋から岡崎東名入り口に戻ったのは、11時になっていた。
11:15。左足をかばいながらゆっくり走りはじめた。何も考えないように集中する。7〜8km走っただろうか?思ったより左足の痛みは感じない。知らず知らず調子のいい時の走りに変わっている。するとおもしろいね。リズムが出てきて、見るものすべてが美しく輝いて見える。車から手を振ってくれる人がいる。苦しいときは、路面を見据えているので、こういうことにも気付かなかったのかもしれない。気がつけば午後1時。19kmも走っていた。この調子ならもう少し走り続けたい。しかし、今日もここで中断してまた、名古屋に戻らなくてはならない。中京スポーツの取材が午後2時から予定されていたからだ。
取材場所、名古屋みやこホテル前には、東京事務所の鈴木さんが待っていた。
取材は、もう慣れたもので、自分の中で一つの流れができている。だから、記者の質問にもいろんな形で対応できたし、ちょっと遊び感覚でしゃべることもできた。そのほうが記者には受けるのだった。
取材は、難なく終わり、遅い昼食をとった。左足の痛みが少ないせいか、食欲まで旺盛になった。ヒレカツ定食の大盛りを頼んだ。すると隣にいた鈴木さんが、自分の麺を半分茶碗に入れてくれる。マネジャー牧人はみそカツ定食を食べていたが、そのみそカツを一切れ拝借、そしてまた、ご飯をお代わりした。自分でもびっくりするほどの食欲だ。みんなの視線に気づき、みんなを見ると、その目はもっと驚いて俺を見ていた。
夕方近くになっていたが、やはり遅れを取り戻そうと、また刈谷市に戻って走りだした。走り始めはやはり左足が心配である。が、今日はいつもと違っていた。昨日まであんなに傷んだ足が、痛みをあまり感じない。むしろ、調子がいい。一体この足はどうなっているのだろうか?そんなことを考えているうちにどんどんペースが上がってきた。行ける所まで行きたい。気持ちを集中して走った。1時間半、気がつけば名古屋熱田神宮前に着いていた。
やっと名古屋に着いた。この名古屋までの距離が心の中でどんなに長かったことだろう。しかし、日程はまだ遅れている。が、心はホッとしていた。東京の事務所の鈴木さんもホッとしたようだ。「まこと、今日はステーキを食べさせてやるぞ」と言った。そして、約束通り極上のステーキ、定価1万相当のものを食べさせてくれた。このところのキャンペーンの苦しさを忘れるひと時だった。
最近、特に一つのものを積み重ねていくことの意味を感じ始めていた。走ることの意味。歌うことの意味。生きていく意味。苦しみを味わう意味などなど。そして、一歩一歩進んで来たコースを日本地図でたどり、赤鉛筆で塗りつぶしてみた。すると不思議なことにあんなに苦しかった道のりが、どんどん楽しい思い出に変わり始めた。人の心とは本当に不思議なものです。そして、また少しの希望が生まれたように思えてきました。
名古屋市内をひた走る
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1985年10月21日(月) 宿泊先:ライオンズホテル名古屋806>
名古屋熱田神宮前から一の宮黒田まで 走破距離:31.1km
天気:快晴 体重:55.5kg 歩数:26.900歩 時間:2時間29分00秒 体温:36.3
1.13:30名古屋市熱田神宮前→国道19号〜22号(16.1km地点)春日村 1時間21分00秒
2.16:10清州 春日村→(31.1km地点)一の宮黒田 2時間29分00秒
朝起きると東京事務所の鈴木さんが、俺の左足を心配してくれていた。「まこと、足の状態はどうだ?」と。「あまりいいとは言えませんが、大丈夫です」と答えると「俺の知り合いの事務所(名古屋 今枝事務所)でいい治療院を紹介してもらうから、今日は午前中、そこに行こう」と言ってくれた。
訪れたところは、名古屋市の「安田治療院」と言う所だった。安田先生は。俺の左足を見るなり「いい足しているねぇ~」と言い「北海道から走ると、こんな筋肉がつくのか!素晴らしい」とほほ笑んだ。そして「結局、骨のバランスが崩れたんだね」といい治療を始めてくれた。1時間ほど治療をしてくれたが、痛みはあまり変わらなかった。ただ、気分的には楽になった。
東京事務所の鈴木さんと別れ、今日のスタート地点、熱田神宮前に戻ったのは、午後1時近くになっていた。熱田神宮はポカポカと暖かく、汗ばむほどである。ストレッチをしていると、お腹が痛くなってきた。出発前なので、用を足そうと
トイレを探すが、見当たらない。お腹は痛くなっていくばかりである。「あぁぁぁ〜もう洩れそう」と言うと、牧人はケロッとした言い方で「まことさん、林の中で出来ますよ」「ばか、ここは北海道じゃないし、神社じゃぁ〜やばいだろ」と言いながらも、もう限界。「神様も許してくれるよな!でも、罰があたらないだろうなぁ?」と言いながら、境内の林の中に飛び込んだ。・・・・が、やっぱり罰があたった。この季節にもかかわらず、蚊の大群に襲われた。その凄まじさは、何と表現しようか?ランニング姿であったことを考えてもらったら、いかにすごいか想像してもらえるだろう。お腹が痛いのも困るが、体中がかゆいのも半端じゃなく、気が狂いそうだった。
13:30。やっとスタート。朝からのけだるさは、変わらず、心を騙しだまし走った。調子の悪い時は、マイナスなことばかり考える。なんとか前向きになろうとするが『今願いが叶うなら、一日ずーと寝ていられるような休みがほしい』と休むことばかりが頭を駆け巡る。日程は、どんどんずれていく半面、取材は各市で決まっているので、その遅れた分の距離を車で移動し時間を費やし、また走る時間が少なくなる悪循環。夜は、キャンペーンも決まっているので、その調整に四苦八苦する。今日も、岐阜日日新聞の取材が夕方あり、その後、岐阜市内のキャンペーンもあるのでどこまで走れるやら。本来なら日程では、関ヶ原まで行っていなくてはいけないのに、まだ、岐阜にもついていない。そんなことを考え走っていた。
春日村を過ぎて、午後4時半過ぎだった。急にめまいが始まった。東北辺りでは、時々あったが、東京以降、初めてである。たまたま牧人の乗るキャンペーンカーが後ろにいたので、その旨を伝え、じゃがみ込んだ。牧人が飛び出してきて「大丈夫ですか?」と聞きながら、カロリーメイトとウーロン茶を差しだした。さすがに気がきくようになっている。カロリーメイトを口に入れたら、少し楽になった。「まことさん、今日はここでやめましょう」と牧人が言う。「でも、また距離が短縮できないぞ」「大丈夫ですよ。確実に前には、進んでいますから・・」と。『いつからこんなにたくましくなったのだるう』と頼もしく思った。「それに、今日も取材とキャンペーンがありますからね」と。結局、一の宮黒田と言う所を、ゴールにした。
岐阜市内に入り、18:00。岐阜日日新聞の取材を受けてから、岐阜市内のキャンペーンの店を周りはじまた。このキャンペーンは、何度やっても、何回経験しても、慣れることはなかった。
今日も2軒目のお店に着くと、そこは、親父のたまり場のようなところであった。『この場所で、俺の歌がうけるの?』と不安になる。親父たちの目線は冷たく、ヤジのような声も飛ぶ。ましてやキャンペーンの衣装は、ジョギング姿であるので「お兄ちゃん、前の膨らみが、立派そうだねぇ」と大笑いされる。『クソ爺』と心で思いながらも、笑顔で歌いはじめた。なんとか無心になろうとする。歌に集中するしかない。なんとなく心が落ち着いてきて、歌い続けた。俺の耳に親父たちの声は、聞こえなくなっていた。歌が終わると、突然、拍手が巻き起こった。訳が分からないが、親父たちにうけたようだ。そこから3曲歌い、雰囲気ががらりと変わっていた。すべてが終わった時、一人の親父が「レコードはあるのかい?」「はい」と答えるや、次々と親父たちが俺のレコードを買ってくれる。「????」しかも、サイン攻めに遭う。『どうなってしまったのだろう?』人は始めと終わりで、こんなにも変わるものなのかと、驚いた。
今日は大きな学習をしたようだ。何事も無心に、そして、見た目で判断せず、真剣にぶつかれば、心が通うものだと改めて痛感した。
熱田神宮前スタート
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1985年10月22日(火) 宿泊先:岐阜駅前駐車場
一の宮黒田から関ヶ原まで 走破距離:36.7km
天気:晴れ 体重:55kg 歩数:31.350歩 時間:3時間00分28秒
総合距離:2,078.7km
1.12:00(一の宮)→国道22号・21号(20km地点)大垣 1時間39分03秒
2.15:40(大垣市)→国道21号 関ヶ原 3時間00分28秒
悩み続けていた左太ももが完治し始めたように思う。サポーターなしで走っても、痛みが出てこない。が、油断は禁物。
ここ岐阜の空は、晴天、秋の日差しが気持ちがいい。
岐阜駅前駐車場で目が覚め、シャケ弁当とコロッケをたいらげ市役所に向かう。その途中、昨夜キャンペーンでお世話になった市会議員の山田大先生とばったり会った。
この山田先生、議員さんなのに議員さんらしくない。メージで言えば、ちょっと気取って、一生懸命がんばって標準語をしゃべるような印象なのに、その真逆。信じられないほど口が悪いのだが、信じられないほど。人のことを気遣ってくれる。ついつい議員さんであることを忘れ、タメ言葉で応待するや「たわけたこと、言ってかんて!」と。どんどんこの人の魅力に引き寄せられていった。「何かあったら、自分ができることは協力するよ」といった内容を岐阜弁でまくし立てられ、市役所の玄関で別れた。とても面白く、いい人であった。『もう一度会いたいな』と心で思った。
21号線を走りだすと車の数がやたらに多い。これまでだと、人に見られていると、自然にスピードが上がってしまうのが常だったが、今日はスピードダウンして走った。左足が痛まないのをさらに気遣ってのことだった。ゆっくり秋の日差しを浴びながら走っていると、牧人が「まことさん20k地点です。少し休みましょう」と声を掛けてきた。『えぇぇ〜もうそんなに走ったの?』調子がいいとアッという間に時間と距離をかせげるものなのだ。「OK!」『今日は何とか行けそうだ』。静岡、愛知あたりは痛みと不安で先行きを悩まされた左足。そう、ある時は、これでリタイヤかな、と思うことが、何度もあったのにね。
《 東海 ・ 近畿 篇 》
大垣市を過ぎ、関ヶ原を眺めながら走る。少し肌寒い。
この山々は、昔から変わることなく、このままの姿だったのだろう・・・?今見える家や道などは、もちろんなかっただろう。しかし、この草原で合戦があり、歴史となって我々の前に横たわることは事実なのだ。そんなことを考えながら、いろんな歴史と夢の中へ自分を連れ込んで気を紛らわしながら走った。
夕日の中、関ヶ原24時間オープンスナックの前をゴールにした。
明日からは、またラジオやテレビの取材もあり、時間調整をさせられる。しかし、二人の中でのモヤモヤを昨夜話し合っていたので、今日は思い切って岐阜に戻り、俺たちだけの羽根伸ばしをたくらんだ。
山田大 先生 岐阜
山々を眺めながら
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1985年10月23日(水) 宿泊先:岐阜市駅前駐車場
関ヶ原から米原駅前まで 走破距離:22.6km
天気:晴れ 体重:56kg 歩数:18.900歩 時間:1時間47分47秒 体温:36.3
総合距離:2101.3km
1.12:40(関ヶ原)→国道21号・8号(22.6km地点)米原駅前 1時間47分47秒
岐阜は、牧人の故郷であった。牧人は昨夜、本当に活き活きしていた。牧人自身が俺に何かを伝えたくていたのだろう。おかげで俺もこの縦断のモヤモヤを解消することができた。
まだ酒臭い息の中、岐阜駅前駐車場のトイレに駆け込んだ。「クソ〜!」前任?者が用をしたものを流していない。トイレ自体もあまりきれいとは言えない。『どうして日本人は、公共トイレなどをきれいに扱えないのだろうか?この縦断で、もの凄く思う一つだ。』
外に出ると、空は今日も晴天に恵まれた。
駅前は、まだ時間が早いため、食堂もまだ開いていない。すると牧人が「朝食の前に、洗濯がかなりまた溜まっていますので、コインランドリーを先に探していいですか?」と聞く。「もちろん」と答えコインランドリーを探すのだがこれがおもしろい。「この辺にあるだろう」と言う所に確実にあった。これも縦断で養った直感がみがかれた証なのだろう。しかし、洗濯の時間は、短縮することはできない。いつも思った時間よりもオーバーしてしまう。まぁ〜この量を見せられないのが残念と言ったところだろう。
結局、スタート地点に着いたのは、正午を回っていた。予定が遅れているのに誤算が続き、また不安がよぎる。
関ヶ原は、晴れているのだが、かなり肌寒い。
今日は、走る予定以外に、取材が何本かあるため、さっそく2時間を目標に走り始めた。昨日とは打って変わって時間がないため、スピードを上げる。左足は、不安だがなんとかもっている。集中して関ヶ原を越えていくが、この道程は思った
以上にきつかった。
米原駅前に着くと、マネージャー牧人が公衆電話の傍らに立ち叫んでいる。息を切らしながら近づくと、タイミング良くFM静岡の生放送とつながっていた。「神業か・・・!?」。早速、電話で生出演、たまたま知り合いの歌手がゲストであったため、会話が盛り上がり、かなり時間オーバーしている。気がつくと汗が冷えて、震えていた。
今日はここをゴールにして、大津市に向かった。
彦根から名神に乗り、びわ湖放送に到着した。牧人は、時間が遅れているのか、かなり慌てている。
そして、ディレクターと打ち合わせを始めるのだが、どうにもチグハグで理解に苦しむ。「衣装は、このままですか?」「はい」「ちょっと、斬新ですね」と笑う。が、いつもランニングにランパンでウインドブレイカーだからこのままでいいと思っていた。「では、とりあえずサウンドチェックしますので、スタジオにお入りください」と言った。心でやっぱり何かチグハグだっと思いつつ、スタジオに入って驚いた。テレビカメラが並んでいた。俺は、心の底からラジオの生だっと思いこんでいたので、恥ずかしかった。牧人はもっと驚いたらしく「まことさん、衣装はジャージに変えますか?」と。
「うんんんん〜そうだな!」でも、あまり変わらない・・・か!それでも、慌ててトイレに飛び込み、グチャグチャの頭をジャンプーで洗っていた。すると、そこに突然入ってきた女子大生「ギャ~〜」と大声を出した。見渡すとここは、女子トイレだったのだ。「すみません・・・!」
いろんなハプニングも過ぎれば、笑い話・・・か?。
ローカルテレビと言えども、テレビはテレビ。ちょっと緊張感のある生放送の中、失敗してもなんと言うことないといった顔つきのアナウンサー、それにディレクター氏。ホットな気分で、朝からトイレでのハプニングをしゃべり盛り上がり、正直ホットな気分にしたれていった。
そして、米原駅前に到着したのは、午後11時少し前だった。
びわ湖放送 本番
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1985年10月24日(木) 宿泊先:米原駅横 喫茶店前
米原駅500m手前から竜王町 走破距離:36.5km
天気:晴れのち曇り 向かい風 体重:56kg 歩数:30.350歩 時間:2時間50分46秒 体温:36.1
総合距離:2,137.8km
1.10:30米原駅前→国道8号 (26.5km地点)安土町 2時間01分23秒
2.14:10安土町 →(36.5km地点) 竜王町 2時間50分46秒
「寒い」。午前7時10分に目が覚めた。やはり冬はすぐそこにまで来ているようだ。
洗面用具を持って、米原駅前のトイレで顔を洗う。通勤客が何気にこちらをチラチラと不思議そうな顔付で通り過ぎて行く。もう慣れちゃったから、堂々とゆっくり・・・!我ながらたいしたもんです。車に戻り、北海道ではよく食べていたパンとハムとレタスを好みの量ではさみパクつく。牛乳を飲みながら牧人に今日のスケジュールを聞く。『今日も一日長そうだ』。
スタート地点の横にちょうど良い空き地があり、車を止めてストレッチをしていると牧人が車にマジックで「全国縦断」の落書きを始めた。これがまた字がうまいから何となく宣伝カーらしく、いい感じになるからおかしい。「牧人、事務所になんて言われるか知らねぇぞ」と言うと「大丈夫です。鈴木さんに許可をとりました」「ウソォ〜」「やるならメチャメチャ派手にやれと言われました」「・・・・・アッそう!!」。
でも、牧人が楽しそうにやっているので、ストレッチをやめ見ていると「では、ここまでにして、マッサージしましょう」と。平和な性格です。
走り初めは、だいたい調子が出てこない。左足はまだ心配だから様子を見ながら走るが、今日はどうも靴が合わない。10km行くまでに靴を3回履き替えた末、新しいナイキの靴に足を入れた。
しかし、どうも足に合わなく気持ちが悪い、まして向かい風も加わり、まったく我慢とイライラの走りである。それを知ってっかどうかわからないが、牧人も焦っているようで、しきりに俺の様子をうかがう「靴、大丈夫ですか?」「・・・うんんん?」「今日は、3時までに切り上げないといけませんからね」と、その言い方に、ちょっとムッとして牧人を睨みつけ「わかってるよ」と乱暴に答えた。
やっぱりお互いイライラしていた。それはまだ、京都前と言うのに今日は高速を使って、神戸まで行かなくてはならない。つまり元々決まっていた「NHK ラジオ神戸」の出演はずらす事が出来ない。つまり、その神戸に向かい帰るロスタイムがまた、かなりの遅れを作るという計算が成り立っていることをお互いが分かっていたからだろう。
だから、まずは25kmくらいを2時間で走れるように心を集中するようにした。
結局、途中一回、昼食休みを入れて36.5km地点竜王町まで頑張った。しかし、頑張った分。体には、かなりダメージを感じていた。
午後3時15分に車で名神に乗る。『これから神戸か!』と言うことは、もう100km以上ロスしていることになる。急に日程スケジュールに腹立たしくなるが、これもしょうがない。
「NHK ラジオ神戸」で、ただひとつ失敗した。
北海道の昼食の時、カップヌードルの冷やし麺を食べた話をした時だった。アナウンサーがいきなり俺をにらみ、首を振り「あぁ・・・・カップ麺ですね」と言い返した。その瞬間、息がとまった気がした。『そっか、カップヌードルは、商品名だから放送禁止用語なんだ』と理解した。それでも、なんとか会話が続けられたのは、アナウンサーがプロでうまく誘導してくれたからだと理解できた。いやはや、いろんなことを学べるものである。
さて、明日は、大阪でオリコンの取材を始め、ラジオ大阪やレコード店回り、新聞、週刊誌などなどがあるので、一日、取材の時間にあてる事になっている。だから走るのは休みになる。体の調子を考えるとナイスである。三の宮の近くで食事を済ませ、風呂に入り新神戸駅前で眠ることにした。・・・のだが、やくざのような怖い兄ちゃん達が、ちょっと離れたところで、何やら車同士で受け渡しのようなことをしている。これは見ていたらやばいと牧人と二人そそくさ荷台の布団の中に潜って息をひそめた。
竜王町 2,137km 走破地点
NHK ラジオ神戸出演
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1985年10月25日(金) 宿泊先:新神戸駅駐車場
取材日:ラジオ大阪・オリコン取材・スポーツニッポン・HANNAN浅田社長(縦断休み)
天気:晴れ時々曇り 体重:56kg
いや〜よく寝た。ボロ車の荷台でも最高の寝室に感じる。横では、牧人が、口を開けて情けない顔をして寝ている。つまりはリラックスしている証拠。牧人も、ここの住人になりきったようだ。おもしろいね、縦断をを始める前は、こんなところで寝れるのかな?と心配したのに、今では我が家。
ドアを開け、新神戸駅駐車場に降り立ち、背伸びした。駅は、本当に便利だ。すぐにトイレに行けるし簡単な買い物も出来るから便利である。今日も洗面用具持参で向かう。その帰り、売店で【週刊読売】を買う。そう、俺の記事が載っていると聞いていたから。そしてすぐさま読んだ。記事の内容は、とても素晴らしい。いや素晴らしすぎるかも!ちょっと誇張しすぎのようだけど、かなり俺の気持ちを大事にしていてくれる文章だった。だから、いろんな事を最近感じるようになった。その道のプロは、やはりそれぞれ、その分野にたけている。先日のNHKのアナウンサーもこの記事のライターも・・・考えれえば、野菜を作る人も、魚を売る人も、それぞれのプロの腕前があるわけだ。ならば、俺も歌手である以上、歌手としての自覚をもっと重ねて行かなければと思った。
9:30。大阪ビクター営業所に向かう。名神から阪神高速に入ったが、これが大渋滞。営業所に着いたのは、20分遅れの11時20分だった。待ち受けていたオリコンの取材を受けた。このところ思うのだが、取材のみなさんは、音楽のことよりも、日本縦断のことばかりを聞いてくる。だから何とか、こちらからレコードのことを話そうとするのだがこれがなかなか難しかった。オリコンの取材が終わり、ラジオ大阪に移動して打ち合わせ、そして、本番。終わるや、スポーツニッポンの取材。昼食をとるひまもなく、時が過ぎていく。
昼食にありつけたのは、午後4時前であった。グラタンとスパゲティーを注文した時、大阪ビクター営業所の方が、治療院を紹介してくれるという。今すぐ行けば、間に合うと言うので、夜の予定を考えて、すぐに出かけることに決まった。『あぁ〜俺のグラタンとスパゲティーは、半分以上残っている』と溜息を飲みこみ立ち上がった。
大阪大丸デパート17階にある小杉整形外科に行って治療を受けた。マッサージや電気治療を受けたが、取り立てて凄い治療ではなかった。その後、心斎橋にある「HANNAN」という会社に直行し、この会社の代表、浅田社長に会った。
縦断でいろいろお世話になっていると事務所から聞いているが、俺が会うのは、初めてであった。第一印象は、いかにも大きな会社の社長さんと言った感じ。ふくよかで、頭の切れそうな顔つだ。まず、タバコは吸わない。酒も土日の週二日だけだと言う。でも、いきなり「行こう」と言ったのは、高級クラブ。そこで、ウーロン茶を飲みながら歌う姿は豪快そのものだ。「腹がへった」と言って次に行った寿司屋では、食欲旺盛。寿司は、ざっと3人前。とりわけ、トロとイカが好きなようで、トロとイカばかりを代わる代わる頼み、他にも思いつきでどんどん平らげて行く。だから、隣にいる俺もついついつられて、そのペースに巻き込まれ、かなりの量を食べた。そして究極が、凄い。「おわんを人数分」と言って出てきたおわんの中身は、マツタケ1本をそのまま手でちぎって入れてあるものだった。それもかなりの大きめのおわんをゴクリ、ゴクリとやっぱり豪快だ。見ていてすべてに感心した。これが上を生きていく迫力なのだろか?
午後11時10分浅田社長にお礼を言ってタクシーに乗り込んだ。しかし、社長は、我々が出発するまで見送ってくれてから、頭を下げた。びっくりした・・・・・!これなんだと、車の中で頭を下げた。
大阪駅の地下駐車場に車を入れっぱなしだったため、車を出しに行った。駐車料金は4,100円也だった。都会はさすがに高い。さて、これから竜王町のスタート地点に戻らなくてはならない。頭の中で100kはあるとふんでいるので、何時に着くか考えていた。ところが、名神の入口に行くと、工事のため通行止め。しょうがなく、171号線と1号線を使って戻ることになったが、京都市内も車が詰まっていて、大津に入ったのは、なんと午前2時を過ぎていた。
大阪ビクター営業所での取材
診察券
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1985年10月26日(土) 宿泊先:大津市ひばりドライブイン駐車場
竜王町から京都市5条まで 走破距離:41.4km
天気:曇りのち雨 体重:56kg 歩数:33,300歩 時間:3時間07分27秒 体温:36.4
総合距離:2,179.2km
1.12:00(竜王町)→国道8号・1号(28.5km地点)大津市 2時間07分11秒
2.16:00(大津市)→国道1号 (41.4km地点)京都5条 3時間07分27秒
昨夜は、竜王町までたどり着けず、ここ大津市ひばりドライブインの駐車場で野宿した。昨夜の楽しい浅田社長との出逢いを思い出しながら、外に出ると、フロントガラスのワイパーに一枚の紙切れが挟んである。何だろうと手に取ると《ランナーズで記事を見ました。沖縄までガンバッテ下さい。1ランナーより》と書いてあった。ランナーズ(雑誌)を読んだ人からの激励のメッセージだった。『朝から縁起がいい』とはこういうことを言うのだろうか?とてもうれしい気分で、疲れていた心身に血が通っていくようだ。
ドライブインに入ると朝から、人がたくさん入っていた。大半がトラックの運転手だった。すると注文を取りに来た店の人が「スポーツニッポンに出ているのは君だろ?」と言う。「・・・あ、はい」と答えたが、まだスポーツニッポンの記事は読んでいなかった。牧人も嬉しそうに対応して、レコードのセールスをしたが、・・・・失敗に終わった。『押し売りはだめだよ』車に戻り、、牧人が「あのトラックの運転手さんたち、なんか朝から宴会やってるようでしたね」と言う。「そんなわけないよ、彼たちだってトラックの運転のプロなんだから・・・!」と答えたが、実は俺も酒のにおいを感じていたし、テーブルの下に何か持ち込んでいたのは気付いていた。『まさか、酒じゃないでしょ!』
さて、スタート地点は、ここからさらに20kmも後方だ。急いで戻り、今日は何とか40km以上はかせいで、京都までは、行きたい。なぜなら、今日の夜も、大阪でのキャンペーンがある。つまり、距離と日程を少しでも近づけたいと思う心からである。しかし、スタート地点に着いたのは、なんと11時半を回っていた。なかなか予定通り進まないが、腐らず頑張ろうと思った。
気合を入れて、12:00スタート。ゆっくり調整しながら5km地点まで来ると、一台の車が近付き「ラジオ聞いたよ」と声をかけてきてくれた。「ありがとう」と答えると、缶コーヒーを助手席から手渡してくれた。そしてなんと「古代さん、最後まで頑張って」と名前で呼んでくれた。こんなちょっとしたことで、どれだけ心が癒され元気が出るのかを今の自分が一番知っていた。気がつけば、一気に28.5kmも走っていた。左足を気にしながらだが、この距離を2時間7分台で走っているのだから、俺にしては上出来である。
大津市で遅い昼食をとり、16:00に再スタート。しかし、雨が降り出し肌寒くなってきた。それでも京都に向かってひた走った。今日は目標通り、40km以上、京都5条まで走ることが出来た。左足も心配なかった。
さて、着替えて、京都から大阪まで車を飛ばします。19:00には「大阪スコッチバンク」に入らなければならない。出来るなら、ちゃんとしたサウンドチェックをしたいと考えているからだ。
大阪スコッチバンクには、東京から応援者の渡辺孝之さんや敏恵ちゃんや坂田律子さんがわざわざかけつけてくれていた。今日は本当に、朝からたくさんの人の心に助けられた日だと改めて思う。一日一日、一歩一歩、確実に進めばいいのだと、また心に囁いた。「今日と言う日に、ありがとう」。
大津でのメッセージ
大阪スコッチバンクキャンペーン
東京からの応援団
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1985年10月27日(日) 宿泊先:大阪DOスポーツプラザホテル
京都5条から高槻市まで 走破距離:26.8km
天気:晴れ 体重:56kg 歩数:22.350歩 時間:2時間01分01秒 体温:36.6
総合距離:2,179.2km
1.12:15京都5条→国道1号・171号(9.2km地点)日向市 41分42秒
2.16:20日向市 →国道171号 (26.8km地点)高槻市 2時間01分01秒
大阪DOスポーツプラザホテルで遅い朝食。やっぱり昨夜は、飲みすぎてしまったようだ。どうしても事務所の鈴木さんが来ると心にたまったストレスを吐き出してしまう。それでも、受け止めてくれるからありがたい。
朝食が終わると、鈴木夫妻、渡辺さん、敏恵ちゃんがランスタート地点、京都5条まで付き合うと言いだした。しかも、我らのキャンペーンカーに乗ってだ。「凄く、汚いよ」「だいじょうぶ・・・!?」なんて言って皆が車に乗り込んだ第一声が「やっぱり臭くない?」「だから、言ったじゃん!!」とムッとするが、何だか、そんなことを楽しんでいるようだ。大阪から京都5条まで、狭い車の中でケラケラ笑いながら遠足のようだった。
正午、スタート地点には、鈴木さんの友人カメラマンが出発前の写真を撮り来ていた。いろいろポーズを変えさせられるが、こうゆうのは、苦手だ。『なんで自然なところを撮らないのだろうか?』しかし、文句は言えない。
12:15。みんなに見送られてスタート。ちょっと寂しくなる感じ。後ろを振り向かず、まっすぐ走る。みんなが見えなくなったころ、調子の悪いことに気づく。『二日酔い!』みんなとケラケラ笑っている時は、なんともなかったのに、ひとり走りだすと、てきめんに体が重く、だるい。不思議だね。
頭の中は、牧人が車で近付いたら、その旨を言って休もうと考えていた。時計を見ると30分経過していたところにキャンペーンカーが来た。しかし、道路が混んでいて駐車できない。しょうがなく目線で『もう少し先で・・・』とアイコンタクト。5分後、車と遭遇したが、やはり駐車不可能でまた走り始めた。すると先に見たことのある人影を発見。なんと、鈴木さんたちが、カメラマンの車に便乗して、先回りしていたのだ。「がんばってー」「また応援に来るよ」「元気で、気をつけて・・・」なんて言ってくれる中を、走り去っていく。うれしい中『あぁ〜走っていてよかった』と胸おなでおろす。が、おもしろいね。さっきまで、調子が悪かったのに、少し元気が出たようだ。ちょっとした切っ掛けで、元気度が移り変わることの面白さをどこかで楽しむようになっている。
昼食をとり、休憩中に車の中でハガキを書きだした。北海道から岐阜までにお世話になった方たちに出すためだ。全部書けば60~70枚はあるだろう。これも大切な仕事と受け止めていた。気がつくと午後4時20分になっていた。あまり遅くなると走れなくなるということで、大阪に向かって走り出した。
夕闇は思ったより早く訪れた。高槻市に入ったころは、完全に夜になっていた。25日の朝、神戸駅で左目のコンタクトレンズを壊してしまって以来、コンタクトをしていない。だから夜になると、まったく見えなくなって走れない。ヘタを
すると、路面のデコボコが見えず転んでしまうのである。かくして、高槻市役所を100mほど過ぎた「吉野家」の駐車場で今日のゴールとした。
中途半端だが、心は「二日遅れ」にこだわっている。「牧人、少し夜走って距離かせごうか?」すると怖い顔して「ダメです。夜の走行は危険過ぎますから!」ときっぱり。「それよりも体調戻して、昼間、精一杯走ってください」と。『牧人も、日に日に、マネジャーとしての腕を磨いているようだ』。ならば、銭湯を探そうと言うことになり、高槻市付近を車で走っていると、「綿温泉」を見つけた。
実にすばらしい温泉だった。東北の八戸以来の感動するお風呂だった。ちなみに280円であった。
キャンペンーカーにご招待
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1985年10月28日(月) 宿泊先:高槻市吉野家駐車場
高槻市から芦屋市まで 走破距離:38.9km
天気:晴れ 体重:56kg 歩数:32,600歩 時間:3時間02分00秒
総合距離:2,244.9km
1.11:35(高槻市)→国道171号 箕面市(13.8km地点) 1時間07分03秒
2.15:00(箕面市)→国道171号 西宮市(30.1km地点) 2時間18分55秒
3.17:00(西宮市)→国道2号 芦屋市(38.9km地点) 3時間02分00秒
イの一番に高槻市役所にお邪魔した。市役所には、朝の食堂もあり、料金も安く、トイレもきれいなので、俺たちにとって本当に便利なところである。そして市長から一筆もいただけるから、一石二鳥と言ったところである。朝食定食を食べて、約束の時間、市役所の秘書課に出向いた。しかし、そこの応対は、最悪であった。『感じが悪い』と言ったほうが正しいかもしれない。言葉じゃなくて、態度から来るその空気感の悪さなのだ。いろいろな役所を回ってきたが、ここがワーストかもしれない。
それでも、頭を下げ、低姿勢でこなしていく自分にイライラした。
昨夜、野宿した吉野家の駐車場に戻り、久しぶりにボンボンベッドを出し、外でマッサージをしてもらった。10月の末とは思えない暖かさである。牧人も、青空の下で、バカなことを言っては笑い、さっきの気分の悪さを、牧人なりに切り替えているようにも思えた。
11:35。2時間を目標に走り始めた。しかし、このところ集中して走れない自分がそこにいた。北海道のころは、疲れても、苦しくても、どこか心の中で芯があって、頑張れたように思う。しかし、最近の俺の心には、日本縦断をしていると言った緊張感がなくなっているように思えた。車からの応援があっても当たり前、取材の人に追いかけられても当たり前、そう、何もかもがマンネリになり、心が揺れていた。だから、走っていてもやたらにつまらなく、すぐにやめたくなるのである。空は抜けるように青く、気持ちの良い風に包まれているにもかかわらず、心は曇っていた。
ふっと、思いだした。確か、静岡で親友植松が『疲れた時、マムシのカプセルを飲んだら、何にでも効くぞ』って手渡してくれていたことをだ。肉体よりも、心のほうが疲れているように思うのだが、試しに飲んでみようと思って、車を止めた。
午後になると、汗ばむような陽気になっていた。先ほどマムシのカプセルを1粒飲んだ。なんだかそれが本当に効いてきた感じがした。本当に俺は単純かもしれない。たったそれだけで、やる気が出てきたように思うからだ。
『病は気から』。何でもよかった。今のその時のハードルを越えるためなら、本当に何でもよかった。
国道171号線の道路は広かった。その広い道を西宮に向かって、やっとまともに走り出した。しかし、あまりに道路標識が多く、ちょっとでも見逃したら、牧人と迷子になりそうな不安に今度は落ちいった。そこで、立体交差の道路を強引に走った。本当は、この場所は、人が走れる場所ではないことを知っていながら、あえてこの立体を選択する自分がいる。裏を返せば、迷子にならないために、命がけの選択をしているのかもしれない。
そして、立体を下がっていくと、前方に白バイ2台が見えた。『マズイ!』と心が叫ぶ。しかし、この道から逃れられることはできない。ただ前に進むしかない。その時、白バイの警察官が、こっちを見た。目があった。一瞬、俺は目をそらす。しかし、ただ前に進むしかない。息遣いが荒くなったように思う。スピードを上げる。まっすぐ前を見る。もうそこに警察官がいる。息をとめた。警察官の横を過ぎた。何も言われずそこを通り過ぎる。さらにスピードを上げた。まるで追われている犯人のような気分で、必死に走る『もうこんな危険なことはやめよう』と言い聞かせていた。文句の一つも警察官に言われたほうがよかったかもしれない。でも、事故の無いように努めるのが一番だと反省していた。
大きく息を繰り返して、ゆっくり走り始めた時、国道2号線に入っていた。『なぜ、あの時、警察官は何も言わなかったのだろうか?』と疑問に思いながらも、心は安堵していた。国道2号線のまっすぐな道に商店街が並ぶ。その歩道を、家路に急ぐ人たちで、道が華やかに映った。『このところ、東京の家族に電話していないな』と思った時、なぜか、とても寂しい気持ちになった。
すっかり暗くなった芦屋に入ったのは、午後6時前だった。そして38.9km地点でゴールとした。
こうゆうところで風呂屋を見つけるのが一番苦労していた。だから先に、近くのお店で、食事して、そこで風呂屋を聞くのが、最近のやり方になっていた。この日も、芦屋のゴールに決めたすぐ近くのお好み屋に飛び込み、いろいろ注文してから、お風呂屋の場所を聞いたが、近くの風呂屋は休みだと分かった。しょうがなく、店を出て、車で探してやっと見つけた風呂屋は、工事中で休み。結局、3軒目を探しだいたのは、午後9時を回っていた。
命がけのランニング
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1985年10月29日(火) 宿泊先:神戸市入り口の路上
芦屋市から明石手前2km舞子浜まで 走破距離:30.4km
天気:雨のち曇り、時々雨 体重:56.5kg 歩数:26,050歩 時間:2時間24分32秒 体温:36.5
総合距離:2,275.3km
1.11:00(芦屋市)→国道2号 (12.3km地点)神戸 1時間01分16秒
2.13:00(神戸) →国道2号 (30.4km地点)舞子公園 2時間24分32秒
久しぶりに天気が悪い。この二日間特によかったから、余計にそう思う。東京で取材を受けた「エンマ」と言う雑誌の発売が今日なので、牧人に頼んで雑誌を買ってきてもらった。雑誌に出ている写真は自慢ではないが、なかなか写りがいい!しかし、最近、俺を取り上げるマスコミは《無名歌手》『無名歌手』と工夫の無い見出しばかり。初めのうちは《超無名歌手》と題したことに笑いも出たが、今は気持ち的にやっぱり、劣等感を覚える。事務所は、このことをなんとも思わないのだろうか?もっといいフレーズで取材するように仕向けないと意味がないのではないかと腹さえ立ってくる。
いつものように、市役所で顔を洗い、市長に一筆をいただき、ランスタート地点に戻る。
季節は、確実に変わり始め、ランニング姿では、肌寒い。少し忘れていた左足の痛みを感じる。そこえ、これまでの無理がたたってか腰まで痛みだしてきた。とにかく、体の悲鳴と向き合いながら、騙し騙し考えて走った。しかし、天候の悪さに加え、気温がグ~ンと下がったこともあり、痛みは、異常に増してきた。神戸まではなんとか我慢することが出来たが、神戸を過ぎたあたりでとうとう我慢が出来なくなり、休むことにした。牧人にマッサージや薬を塗ってもらったが、痛みが治まらず、本当は、飲みたくなかったが、浜松の「みのる整形外科」でもらった痛み止めを飲んだ。
心は冷え切ったままだった。調子が悪いとやっぱり、悪い方向に心も進む。この倦怠感はなんだろうか?何もかもが色の無い世界に見えてくる。そんな時、牧人が「実は、現金が底をついています」と言う。記録写真のフイルムもカラーが買
えず、モノクロを買ったようだ。マイナスに動きだすと、すべてがマイナスに動きだすのも皮肉なもんだ。それでも、前に進まなくてはならない。
気分が滅入っていても、キャンペーンの取材やラジオは確実に入ってくる。そして、今日も週一度のFM静岡の番組に公衆電話から出演することになっていた。
牧人は、車を俺の前後に行ったり来たりさせながら、公衆電話を探しタイミングをはかっていた。ちょうどよい道路のスペースの脇に公衆電話ボックスがあり、そこからFM静岡に電話した。電話の向こうには、FM静岡の牧田さんの元気な声が聞こえてきた。「古代君、元気で順調かい?」「・・・はい、元気で快調です」と嘘を言った。「それはよかった。今日はね、古代君の知り合いの西村協さんがゲストなんですよ」と始まった。西村さんとは、渋谷のライブハウスで何度かご一緒していたので、話は簡単に盛り上がっていった。が、心の中は、なぜか冷めたままだった。アッと言う間に番組は終わり、「また来週!」と言って牧田さんの電話を切った。心が沈んでいても、表面的な形はつくろっていた。
そんな時の自然の中の景色は、いつも心を癒してくれる。今、ここは須磨浜海岸を走っている。久しぶりに見る海と右手の公園の森の色彩がとても美しい。晴れていればもっときれいに違いない。左側のきわを電車が走り、電車の車輪の音が心地いい。遠くには船が浮かびのどかな海の香り。ホッとした心の余裕。しかし、突然の痛みでぶち壊されてしまった。腰と左足に激痛が走ったのだった。
足を引きずりながらも、なんとか舞小濱に着いたのは、午後4時を過ぎていた。牧人が「ちょっと薬を塗りましょう」と車から降りてきて、「これから神戸新聞の取材もあるので、ここまでにしましょう」と言った。俺は黙ってうなずいた。
場所は、明石市手前2kmの地点であった。
風呂屋を探し、今日の寝ぐらを明石市役所の駐車場に決めた。そこに落ち着いたのはまだ午後7時前だった。
体は本当に疲れていた。なぜかそれより心に魂を感じないでいる。缶ビールをひとつ開けた。が、全部飲めなかった。牧人に「今日は寝るぞ」と告げた。その後はもう覚えていない。
神戸市に入る
脈拍を測る
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1985年10月30日(水) 宿泊先:明石市役所駐車場
舞子浜から姫路市国分寺まで 走破距離:41.6km
天気:晴れのち曇り 体重:55kg 歩数:34,200歩 時間:3時間14分04秒 体温:36.3
総合距離:2,316.9km
1.11:55(舞子浜)→国道2号線(20.2km地点)加古川市 1時間33分56秒
2.14:40(加古川市)→国道2号(34.3km地点)高砂市 2時間39分41秒
3.16:30(高砂市) →国道2号(41.6km地点)姫路市 3時間14分04秒
おかしな天気である。昨日はあんなに寒かったのに、今日は、嘘のように暑い。まるで初夏並みである。やはり気温が暖かいと、左足も腰も痛みがそんなでもない。それに、前日の神戸新聞の取材が、明石版に載っていたためだろう。車がクラクションを鳴らしていく。中には、声をかけてくれる人もある。
出発前に舞子浜でストレッチをしていると、30歳ぐらいの男がニコニコして近づいてきて「今、銀行で雑誌を見ていたら、【全国縦断…】の記事が出ていたよ。大そうな奴がいるものだと思って外に出たら、そこに全国縦断と書いた車が止まっていたので、びっくりしたんだよ」と話しかけられた。これまでの縦断の話やレコードのことを聞かれ、時間を忘れてはなしてしまった。2~3日前の心の空虚感は、少なくとも今はなかった。やっぱり誰かに気にとめてもらえることがどれほど、元気の源になるかをこの場所で感じていた。「がんばってくださいね。古代さんが沖縄に着いたというニュースを楽しみにしています」と言って、その彼は俺を見送ってくれた。
天気のいいせいか、加古川に入るころ、久しぶりに脱水症状を起こした。だいたいこんな時はど、牧人の車は見えず、根性で走り続けなければならない。「あの電信柱まで・・・!」を目印にして一歩一歩大事に、そして、我慢して走る。それでも20km地点までこれた。やっと牧人に会い水をがぶ飲みして「ここでちょっと仮眠するよ」と告げると「自分も、つぎの取材やいろいろ調整があるのでこの場で休憩は助かります」と言う。
車の中で、うとうとした時、外でガヤガヤと子供たちがうるさい。ドアを開け「オ〜ス」と声をかけると「おっちゃん、サインしてくれや」と一人の小学生が言った。心の中で『おーい、おっちゃんはないだろう』と思ったが、彼らから見たら、おっちゃんに違いない。でも、この子供たちの素朴な心が俺を元気づけてくれていた。その中で特に真っ黒に日焼けした豊田君と言う子が、とてもヤンチャな子なのだが、なぜかえらく気に入ってしまった。「おっちゃん、俺も歌手になりたいんや。どないしたらなれるんや」と。「そうだな、俺みたいに体を鍛えて、一生懸命毎日歌っていたらなれるかもよ」と言うと「歌手って、たいへんなんやな」と。
子供たちにパワーを貰い再度走り始めると、今日は心のモヤモヤが少し楽になっていた。毎日、日に日に心は変化する。坂を登りまた下るように、こころも上ったり下ったり。そんな繰り返しの中でいつか何かを掴むのだろうと考えていた。
姫路に着き。銭湯に入る。関西は銭湯の料金が安いうえ関東と違い設備が充実していてとても良い。だからどうしてもゆっくり入ってしまう。気がつくと今日もキャンペーンの支度をする時間が足りなくなる。それでも、少し発声練習をしなければと、、路上駐車している車の中で声を出していると、二人の警察官が車のドアをたたく。「どうかしましたか?」と聞くと、警察官は鋭い目つきで、「だれか待っているのか?」と聞いてくる。「いま、全国を周り、レコードのキャンペーン中なんです」と答えると「姫路や呉は、怖い街だから気いつけや」とドスのきいた太い声で言われた。「了解です」と答えて敬礼した。どっこい、その警察のお方のほうが、あちらの方よりも、全然怖い感じと言葉を飲み込んだ。
キャンペーンは、問題なくうまく行った。清水さん、山中さんにはお世話になりました。
「おっちゃんサインくれや」と小学生
キャンペーンはいつも闘い
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1985年10月31日(木) 宿泊先:姫路市国分寺近くのパチンコや駐車場
姫路市国分寺から相生まで 走破距離:26.8km
天気:晴れ(夕方)小雨 体重:55kg 歩数:23,600歩 時間:2時間23分27秒 体温:36.4
総合距離:2,343.7km
1.10:20(姫路市国分寺)→国道2号線 (3.7km地点) 17分02秒
2.13:30(姫路市)→(16.7km地点)太子町 1時間34分33秒
3.17:00(太子町)→(26.8km地点) 相生市 2時間23分27秒
素晴らしい天気のようだ。薄眼をあいた車の中に、朝の木漏れ日がまぶしい。汗をかいている。ゆっくり起き上がり外に出た。「そっか!パチンコ屋の駐車場だったのか!」。トイレを探すが、見当たらないので車の陰に隠れてした。昨夜のキャンペーンの疲れが、だる〜く残っている。
9:00姫路市役所に向かう。姫路市役所はとても立派な建物だった。朝食もとらず、市長に面会。一筆を貰ったらすぐに移動しなければならない。10時45分に姫路市の中心部まで行かなくてはならない。出来るならランニングで行きたいと思っていたので、すぐさま、スタート地点に戻る。ストレッチもそこそこ10:20。ランスタート。17分ほど走ると、姫路城を眺められる場所に着いた。そこには、今日の取材をセティングしてくれた林さんと言う女性と毎日新聞の記者、小坂さんが既に待っていた。林さんの第一印象は、女でありながらいかにもやり手と言った感じである。目に鋭さがあるのが、凄く印象的だ。そして、記者の小坂さんは、打って変わって、おっとりした感じの穏やかな人だ。「姫路城をバックに、何枚か写真を撮って、お話をお聞かせください」といい、写真を取り出した。小坂さん、おっとりしていると思いきや、カメラを持つと人が変ったようにフィットワークがいい。「ちょっと、リアルな感じがほしいので、ずーと後ろから走ってもらえますか?」など、自分の思いをどんどんぶつけてきた。うん、逆に気持ちがよかった。
そして、その流れの中、神戸新聞も同じような感じで取材が行われていった。「とても良い取材になりました」「こちらこそありがとうございます」と挨拶して、取材の方々と別れた。
「さて、朝と昼の兼用ランチをどこかで食べようぜ」と牧人に言った。すると、牧人はこのところお金を切り詰めているらしく「まことさん、ホッカホッカ亭のお弁当でもいいですか?」と言う。「うんん・・・・もちろん」とちょっと小さな声だったかもしれない。しかし、あまりにお腹がすいていたので、欲張って《ウナギ弁当(600円)いなりずし6個、味噌汁》を頼んだ。
お腹がいっぱいである。これを食い過ぎたというのだろう。『あぁ〜なんて、こう貧乏くさいのだろうか?』もう少し考えてゆっくり食べればよかったと反省しても遅かった。満腹の腹は、とても走れるような状況でない。それでも、走らなくてはならない。
13:30。なんとかなるだろうと走り始めた。ゆっくり走るのだが、お腹の満腹感が心までも圧迫してゆく。10kmほど誤魔化しただろうか?とうとう腹痛を起こしてしまった。汗は、冷や汗のような汗が、滝のように流れ落ちている。
水を飲む。が、余計に気持ちが悪くなった。『いったい俺は、何をしているのだろうか?』牧人は、また心配して、顔を覗き込んでいるが、まさか、『食い過ぎ…』なんて言えなので、「ちょっと調子悪い」とだけ言って、歩くようなペースに落とすが、コンディションは悪化の一途をたどった。太子町と言う所で、とうとう歩く羽目ななった。そして、車を止めて、仮眠した。
悪い夢を見ていた。汗びっしょりだった。ふと時計を見ると午後4時半。『あぁ〜どうしてこうなんだろうか?』調子は、今一つである。しかし、16km走っただけでは、日程はまたどんどん崩れてしまう。とにかく、走らねば。牧人と相談したら「相生まで、走ってください」と言う。相生で大道さんと言う方と会う約束があると言った。
17:00。夕暮れは、気温が下がってきた。小雨も降ってきた。それでも、日程を考えて走り始めた。寒いので一生懸命走った。走り始めるとやっと体が慣れて、いつもの調子に戻っていった。45分ほど走ると相生市に入った。
姫路城をバックに毎日新聞
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1985年11月1日(金) 宿泊先:赤穂の旅館(大道さんのご招待)
相生 国道250号線入り口から岡山市吉井川 走破距離:51km
天気:晴れのち曇り(向かい風) 体重:55kg 歩数:43,100歩 時間:4時間10分21秒 体温:36.4
総合距離:2,394.7km
1.10:20(相生市250号入口)→国道250号(13.5km地点)赤穂駅前 1時間07分27秒
2.13:40(赤穂駅前)→国道250号(39.5km地点)備前市 3時間13分19秒
3.16:50(備前市ん)→250号〜国道2号(51km地点)岡山市吉井川 4時間10分21秒
《 近畿 ・ 山陽路 》
昨夜は、東京の渡辺孝之さんの紹介で相生の大道さんと言う方にお世話になった。
本当に小さな駅、相生駅で待ち合わせした。初めて会うのに、気遣いの心配もないほど打ち解けさせてくれる人柄だった。赤穂の三田村亭と言う所に連れて行ってもらい御馳走になった。このキャンペーンに本当に心から賛同してくれているようで、何から何まで至れり尽くせり。挙句の果て、旅館まで用意してくださった。しかも、何かのお役に立ててとこっそり「5万円」を渡された。世の中には、こんな方がいるのだと、びっくりしたが、さてこの5万円はどうしよう?
播磨灘が一望できる旅館で目が覚めた。昨夜は、夢のような夜だった。外を眺めながら「牧人。昨夜もらったお金どうする?」「・・・・!」「うんん〜、大道さんは、内緒だよって言ってたから、事務所には言うなと言うことらしいぞ」「・・・・!、まことさんが貰ったものなので・・・」いやはや、逆に困ってしまった。
11月だと言うのに、夏のような陽気。旅館のテラスに出て、海を見つめた。ゆっくりと海を渡る船の汽笛が、心を和ませる。「まずは、大道さんのうちに挨拶に行こうか!」「そうしましょう」と。
9:00。旅館を出かけようとすると、大道さんが現れた。そして、赤穂の町や城を案内してくれるという。しかし、今日の予定などを言うと、「でも、せっかくだから」と案内してくれた。歴史の町は、やはり情緒があった。しかももっと驚いたことは、帰りに大道さんの家に立ち寄ると、奥さんが玄関でご丁寧に、両手をついて出迎えてくれた。さすが、赤穂の血が流れている家柄は、一瞬に侍屋敷の空気を感じさせてくれて、背筋かピーンとなった。
本当に心からお礼を言って、午前10時にお暇した。
今日のスタート地点は、相生市国道250号線の入口だ。牧人とワイワイ騒ぎながら居ると、すぐそばの酒屋のおばさんが「あんたら、本当に北海道から来たのかね」と聞いてきた。「はい」と笑顔で答えると「若いのに、感心だ」と言って、いろいろ話しかけてきた。おばさんは、「家は、レコードはかけられないけど、カセットなら大丈夫」と言って、カセットを2本買ってくれた。そして、「お茶飲んで行きなさい」と本当に世話を焼いてくれる「でも、もう出かけないと」と言うと、うなずいて「体に気おつけてね」と涙ぐむ。なぜか、お袋とダブっていまった。
10:30。酒屋のおばちゃんの拍手を背に相生から赤穂に向けて出発した。すぐに峠になる。かなりきついが、これが景色のよさに心も体も元気に上って行く。あっという間に13.5kmを走り、赤穂駅前の小学校の門の前で休憩にした。
するとその小学校から歌が聞こえてきた。10年前のフォークソングのようなメロディー。「♪ この歌を届けよう♪」と子供たちが歌っている。初めて聞くメロディーなのに、なぜか、懐かしく知っているようにも感じる。いつの間にか、子供のころに呼び戻されていくようだ。『誰の歌なのだろうか?』しばし聞き入っていたが、本当に初めての歌だった。
13:40。赤穂駅前を出発した。走り始めてもさっきの歌が耳から離れない。いつの間にか、遠い日の自分を思い出していた。やんちゃで泥だらけになっていたあの日。ふと、両親の姿がまぶたに浮かぶ。汗まみれで働いている父、家中を飛び回っている母。『今頃どうしているのかなぁ〜』。一応、世間的には、歌手として独り立ちしたように見せているが、まだまだ親孝行をするまでには行っていない。『いつかきっと…』。今は、我慢しよう。そして、この我慢をきっと実らせる日まで・・・。
海の潮風がとても気持ちがいい。牧人が、堤防の上に立ち写真を撮っている。右手を上げると、写真を取ってから「絶好調ですね!でも、無理しないでください」と声がかけってくる。また、大きく右手を挙げるが、体はそのままのかたちで
前に進む。時間が大きく動いている。ゆったりゆったりと。「気持ちいいね」。今日はずうと走っていたい。そんな気持ちになるほど絶好調だ。
国道2号線に入った。車の数が急に増える。空は、急に暗くなるが構わず走る。そして、「吉井川」の看板を見て、牧人にとめられた。
赤穂城・大道さんと
相生と赤穂の峠
赤穂から絶好調の海辺
絶好調の 11 1
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1985年11月2日(土) 宿泊先:岡山市入口 ドライブイン「アローズ」
岡山市 吉井川から倉敷市まで 走破距離:35.5km
天気:晴れ(寒い) 体重:56kg 歩数:30.000歩 時間:2時間52分45秒
総合距離:2,430.2km
1.11:03(岡山市吉井川)→国道2号(16.6km地点)岡山市内 1時間19群55秒
2.15:10(岡山市内)→国道2号 (31.1km地点)早島町 2時間28分55秒
3.17:00(早島町) →国道2号 (35.5km地点) 倉敷市 2時間55分45秒
「名古屋で君のラジオ聞いたよ」とトラックの運転手が話しかけてきた。まぶしいほど天気のいいドライブイン「アローズ」。ちょうどドライブインで朝食を済ませ、車の中で日記を書いている時だった。パンチパーマの兄さんがニヤニヤ笑っている。でも、何となく親しげで嫌味がない。「兄ちゃん、根性あるねぇ〜!。俺には一生できないことだよ。」と。そして、「俺にサイン書いてくれるかい。もちろんレコードがあったら買わせてもらうよ」だって。そして、話をしながらサインをしていると大変。他のトラックの運転手や近所の人が集まりだし、サイン攻めだ。
気持ちは、ノリノリ。笑顔を振りまきながら笑い声が空高く舞う。でも、外の空気は、明らかに冬の訪れを感じさせる冷たさだ。
思いがけない盛り上がりにランスタート地点に戻ったのは、午前11時前だった。
11:03。元気に今日もスタートした。肌寒い。それが、気持ちよく感じる。そう凄く調子がいいことを物語っている証だ。とは言っても、昨日51kmも走っている疲れは、少しは感じる。それでも、この程度の疲れで済んでいることに、自分の体の驚異に驚くばかりfだ。
さて。今日は、12時半までに岡山市内の山陽新聞に着かなくてはならない。心の中で『この調子なら充分間に合う』と確信していた。朝の出足がいいと、やっぱり気分は前向きになる。走っていいて、楽しくてしょうがない。気がつくと気持ち的にアッという間に「山陽新聞」の前に着いていたと感じる。時計を見る。牧人が慌てている。「まことさん、あと5分しかありません」「エッつ・・・」俺が余裕こいていただけなの?時間はギリギリ?。それでも、おれの心は余裕だった。『やっぱり今日も調子がいい!』
山陽新聞の取材は、簡単に終わってしまった。新聞社の向かい側に駐車して、日本シリーズに耳を傾けながら、少しウトウトした。車の中に照りつける太陽は暑く汗ばんでくる。それが気持ちよくて午後の日差しの中でまどろむ。あまりに暑くて、ボーっとした頭で窓を開ける。すると思った以上に冷たい風が一気に入ってきて、汗ばんだ肌を突き刺した。「寒〜い」と飛び起きる。牧人
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